松平頼救
江戸時代中期~後期の大名。宍戸藩第5代藩主
松平 頼救(まつだいら よりすけ)は、江戸時代中期から後期にかけての大名。常陸国宍戸藩5代藩主。官位は従五位下・大炊頭。書道や茶道に優れた教養人であり、『垂裕閣法帖』16巻を編纂している。三島由紀夫は来孫である。
松平頼救像(茨城県立歴史館蔵) | |
時代 | 江戸時代中期 - 後期 |
生誕 | 宝暦6年2月15日(1756年3月15日) |
死没 | 文政13年5月4日(1830年6月24日) |
改名 | 熊十郎(幼名)→頼救→大翁(法号)→太玄斎 |
戒名 | 広正院円誉至徳太玄大居士 |
墓所 | 茨城県常陸太田市瑞竜町の瑞龍山 |
官位 | 従五位下、大炊頭 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家治→家斉 |
藩 | 常陸宍戸藩主 |
氏族 | 水戸徳川家→水戸徳川家支流宍戸松平家 |
父母 |
父:徳川宗翰、母:瀬川(山本氏) 養父:松平頼多 |
兄弟 |
徳川治保、直之允、勝五郎、直之助、 頼図、時姫、頼救、保受、保福、翰子、禎子、嶺姫、金姫、中山信敬 養兄弟:美奈姫 |
妻 |
正室:松平頼多の娘・喜多 側室:杉崎氏、田口氏、中里氏、岩崎氏 |
子 | 頼敬、太田資原、頼位、順、政、直、克、金、千勢、佐衛、松 |
生涯
編集宍戸藩の本家である水戸藩5代藩主・徳川宗翰の六男。明和3年(1766年)、先代藩主・松平頼多が死去したため、その婿養子として跡を継いだ。享和2年(1802年)4月5日、長男・頼敬に家督を譲って隠居し、同年5月には剃髪して大翁と号した。文化5年(1808年)には太玄斎と号する。
系譜
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