松平義昌

陸奥国梁川藩初代藩主

松平 義昌(まつだいら よしまさ)は、江戸時代前期から中期にかけての大名陸奥国梁川藩の初代藩主。大窪松平家(梁川松平家)の祖。

 
松平 義昌
時代 江戸時代前期 - 中期
生誕 慶安4年11月18日1651年12月30日
死没 正徳3年閏5月20日1713年7月12日
改名 次郎太(幼名)、義則(初名)、義昌
別名 通称:出雲
戒名 得安院殿
官位 従四位下出雲守左近衛少将
幕府 江戸幕府
主君 徳川家綱綱吉家宣家継
陸奥梁川藩
氏族 尾張徳川家→大窪松平家
父母 徳川光友
樋口信孝の娘・勘解由小路
養母霊仙院
兄弟 徳川綱誠、豊姫、義行、直姫、義昌康永馨香院、八郎太郎、友重、秀姫、能姫、万之助、仙之助、万里之助、官之助、友著、元姫、長尊
正室丹羽光重の娘・久勝院
側室:副田氏
茂林院、徳雲院、稲姫、春林院、沖姫、友太郎、和姫、萬次郎、義方義武、法智院、富姫、理體院、春梢院
養子内藤政貞正室榮姫
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経歴

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慶安4年(1651年)、尾張藩の第2代藩主徳川光友の3男[1]として誕生。寛文11年(1671年)6月8日、丹羽光重の娘と婚姻し、大窪邸に移り大窪松平家と通称されるようになる。延宝6年(1678年)7月26日、儀利から義昌に改名。

寛文6年(1666年)3月28日、従四位下出雲守左近衛少将に任じられる。天和3年(1683年)8月、幕府より3万石を与えられて、尾張藩の御連枝(分家)として陸奥梁川藩を立藩。領地に赴くことなく江戸に定府し、名古屋城下にも邸を構えた。城下町の建設や役人制度、新田開発、検地などに努めて藩政を確立した。一方、物価高騰による藩財政の窮乏から、元禄8年(1695年)以降にたびたび年貢率を引き上げ、新たに課役を設けるなどしたため、農民の負担も重くした[2]。元禄6年(1693年)8月1日、江戸本庄に御下屋敷5,000坪を拝領。

正徳3年(1713年)正月から病を得て、閏5月20日に死去。跡を5男・義賢(義方)が継いだ。

系譜

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子女は8男6女。

  • 父:徳川光友(1625-1700)
  • 母:勘解由小路 - 松寿院、樋口信孝
  • 養母:霊仙院 - 千代姫、徳川家光長女、光友御簾中(正室)
  • 正室:久勝院 - 丹羽光重の娘
  • 側室:副田氏
  • 生母不明の子女
    • 長男:松平茂林院 - 早世
    • 次男:松平徳雲院 - 早世
    • 長女:稲姫 - 伊東祐崇側室
    • 次女:春林院 - 早世
    • 三女:沖姫 - 早世
    • 三男:松平友太郎 - 悟慎院:早世
    • 四女:和姫 - 心光院:早世
    • 四男:松平萬次郎 - 寳林院:早世
    • 六男:松平義武 - 安窓院・長次郎・伊織・義喬
    • 五女:法智院 - 早世
    • 六女:富姫 - 珠月院、早世
    • 七男:松平理體院 - 早世
    • 八男:松平春梢院 - 早世
  • 養子

脚注

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  1. ^ 実際は長男だが母が側室のため三男として扱われた。
  2. ^ 『徳川・松平一族の事典』

史料

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  • 『尾張徳川家系譜』
  • 徳川実紀
  • 『尾藩世記』

出典

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  • 工藤寛正 編『徳川・松平一族の事典』(東京堂出版、2009年)