木村龍治
木村 龍治(きむら りゅうじ、1970年9月1日 - )は、愛知県名古屋市[1]出身の元プロ野球選手(投手)、コーチ。右投右打。
Honda コーチ | |
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基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 愛知県名古屋市港区 |
生年月日 | 1970年9月1日(54歳) |
身長 体重 |
174 cm 77 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 1992年 ドラフト4位 |
初出場 | 1993年6月11日 |
最終出場 | 2003年7月30日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
コーチ歴 | |
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この表について
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経歴
編集プロ入り前
編集中京高校(現・中京大中京高校)では、1学年先輩に後に同僚となる後藤孝志が、2学年後輩に稲葉篤紀がいた。
1987年の夏の甲子園に出場、背番号10ながらチームのエース格として活躍する。準々決勝に進むが、エース島田直也を擁する常総学院に敗れた[2]。
1988年の春の選抜は背番号1のエースとして出場[1]。3回戦に進み宇部商を相手に好投、9回一死まで完全試合を続けていたが、続く打者に一・二塁間を綺麗に割られ初安打を許し、二死二塁から逆転2点本塁打を喫し敗退[3]。同年夏は県予選初戦で6失点を喫し敗れた。
青山学院大学に進学し、東都大学野球リーグでは1989年秋季リーグで優勝を経験する。
1991年春季リーグは東洋大に次ぐ2位となるが、6勝1敗の好記録でベストナインを受賞した[1]。小久保裕紀は1年後輩である。リーグ通算50試合登板、21勝11敗、防御率2.50、217奪三振の成績を残した。
1992年のドラフト会議で読売ジャイアンツから4位指名を受け、入団した[1]。
プロ入り後
編集入団後は、球威のある速球とスライダー・シュートを武器としていた。
1995年にイースタン・リーグの最多勝を受賞[1]など二軍では主戦級の活躍もあり他球団からの評価は高かったが、当時監督であった長嶋茂雄には評価されず[4]、登板機会は少なかった。
1999年にプロに入って初めて一軍に定着し中継ぎの一角として53試合に登板し、初勝利を含む5勝を記録した[1]。
2000年は7月に月間MVPを獲得するなど、前年と同じく中継ぎの一角としてチームに貢献した。しかし翌年以降は成績が低迷。
2004年限りで引退した。
現役引退後
編集引退後は巨人のコーチに就任。
2005年は二軍トレーニングコーチ補佐に就任。
2006年は二軍トレーニングコーチを務めた。
2007年は一軍トレーニングコーチ。
2008年から2009年までは一軍トレーニングコーチ兼投手コーチ。
2012年から2014年は再び二軍トレーニングコーチを担当。
2015年からは再度二軍投手コーチに就任した。
2017年は再び一軍投手コーチ。
2018年は一軍投手コーチ兼トレーニングコーチを務めた。
2019年は再度二軍トレーニングコーチを担当し、2019年限りで退団した[5]。これにより1993年の入団から27年間着続けた巨人のユニフォームに別れを告げた。
2020年からは社会人野球Honda硬式野球部のコーチを務めた[6]。
2021年12月14日、2022年より千葉ロッテマリーンズの一軍投手コーチを務めることが発表された[7]。背番号は77。
2023年より再びHonda硬式野球部のコーチを務める[8]。
詳細情報
編集年度別投手成績
編集年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
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1993 | 巨人 | 16 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | ---- | 97 | 24.0 | 18 | 1 | 10 | 0 | 2 | 17 | 0 | 0 | 12 | 8 | 3.00 | 1.17 |
1994 | 7 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | ---- | 53 | 12.1 | 10 | 0 | 5 | 0 | 0 | 9 | 0 | 0 | 4 | 2 | 1.46 | 1.22 | |
1995 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | ---- | 19 | 3.1 | 8 | 0 | 2 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | 6 | 6 | 16.20 | 3.00 | |
1996 | 7 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | -- | .000 | 33 | 8.0 | 7 | 0 | 3 | 1 | 0 | 9 | 0 | 0 | 3 | 2 | 2.25 | 1.25 | |
1998 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | ---- | 9 | 2.0 | 3 | 1 | 1 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | 2 | 2 | 9.00 | 2.00 | |
1999 | 53 | 0 | 0 | 0 | 0 | 5 | 2 | 2 | -- | .714 | 249 | 59.2 | 56 | 6 | 19 | 2 | 2 | 31 | 3 | 2 | 26 | 25 | 3.77 | 1.26 | |
2000 | 54 | 0 | 0 | 0 | 0 | 4 | 1 | 0 | -- | .800 | 206 | 47.2 | 45 | 8 | 16 | 2 | 1 | 38 | 4 | 0 | 19 | 15 | 2.83 | 1.28 | |
2001 | 20 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | -- | .000 | 92 | 19.1 | 30 | 5 | 4 | 1 | 0 | 12 | 0 | 0 | 12 | 12 | 5.59 | 1.76 | |
2002 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | ---- | 12 | 2.0 | 5 | 0 | 1 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 2 | 2 | 9.00 | 3.00 | |
2003 | 7 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | -- | 1.000 | 47 | 7.2 | 13 | 1 | 6 | 0 | 5 | 3 | 1 | 0 | 14 | 13 | 15.26 | 2.48 | |
通算:10年 | 172 | 0 | 0 | 0 | 0 | 10 | 5 | 2 | -- | .667 | 817 | 186.0 | 195 | 22 | 67 | 6 | 10 | 124 | 8 | 2 | 100 | 87 | 4.21 | 1.41 |
- 「-」は記録なし
表彰
編集- 月間MVP:1回(投手部門:2000年7月)
記録
編集- 初記録
- 初登板:1993年6月11日、対中日ドラゴンズ9回戦(ナゴヤ球場)、8回裏に3番手として救援登板・完了、1回無失点
- 初奪三振:同上、8回裏に大豊泰昭から
- 初勝利:1999年5月29日、対阪神タイガース9回戦(東京ドーム)、8回表2死に5番手として救援登板・完了、1回1/3を無失点
- 初セーブ:1999年7月17日、対阪神タイガース17回戦(阪神甲子園球場)、8回裏1死に6番手として救援登板・完了、1回2/3を無失点
背番号
編集- 57(1993年 - 1994年)
- 41(1995年 - 2004年)
- 82(2005年 - 2011年)
- 104(2012年 - 2014年)
- 73(2015年 - 2016年)
- 85(2017年)
- 80(2018年)
- 105(2019年)
- 77(2022年)
関連項目
編集脚注
編集- ^ a b c d e f プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、192ページ
- ^ 「全国高等学校野球選手権大会70年史」朝日新聞社編 1989年
- ^ 「選抜高等学校野球大会60年史」毎日新聞社編 1989年
- ^ 1998年日刊スポーツ発行プロ野球選手写真名鑑
- ^ “巨人 内田コーチ、木村コーチ、秦コーチの退任を発表”. スポーツニッポン. (2019年10月2日) 2021年12月15日閲覧。
- ^ “元巨人木村龍治氏、社会人ホンダの投手コーチ就任”. 日刊スポーツ. (2020年1月7日) 2020年6月29日閲覧。
- ^ “ロッテ1軍投手コーチに木村龍治氏就任「粘り強く耐えて1つの勝利を」”. 日刊スポーツ. (2021年12月14日) 2021年12月15日閲覧。
- ^ “Honda 硬式野球部 | Honda SPORTS | Honda公式サイト”. SPORTS | Honda. 2023年1月6日閲覧。
外部リンク
編集- 個人年度別成績 木村龍治 - NPB.jp 日本野球機構
- 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan)