木村重茲
木村 重茲(きむら しげこれ)は、安土桃山時代の武将・大名。豊臣氏の家臣。別名に定光、重隆、重高。通称は隼人正、常陸介。千利休の弟子で、台子七人衆の1人。
時代 | 安土桃山時代 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 文禄4年7月15日(1595年8月20日) |
別名 | 定光、重隆、重高、隼人正 |
戒名 | 常照院殿重高大居士 |
墓所 | 大阪府茨木市の大門寺 |
官位 | 常陸介 |
主君 | 豊臣秀吉、秀次 |
氏族 | 木村氏 |
父母 | 木村定重 |
妻 | 宮内卿局 |
子 |
高成、女子、重成[1]、村井重盛?、 篠原重之 |
生涯
編集木村定重の子として誕生。元亀元年(1570年)、金ヶ崎の戦いでは木下秀長旗下として、蜂須賀正勝、前野長康、加藤光泰に次ぐ武功を上げたという[2]。天正11年(1583年)、父の死去により家督を継ぐ。同年の賤ヶ岳の戦いでは羽柴秀吉(豊臣秀吉)方として参戦し、近江国堂木山砦の守将を務めた。天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いにも参加し、その功績により天正13年(1585年)、秀吉より越前国府中(現福井県越前市)に12万石を与えられた。
天正15年(1587年)、九州征伐にも参戦する。天正18年(1590年)の小田原征伐では豊臣軍の先鋒を務め、武蔵国岩槻城攻略で武功を挙げた。続く奥州仕置においても出羽国の検地を担当し、葛西大崎一揆征伐においては豊臣秀次に従って武功を挙げた。この頃から秀次付の家老となり、文禄元年(1592年)の文禄の役では3,500の兵を率いて朝鮮に渡海する。
これらの武功を秀吉より賞されて、山城国淀18万石に加増移封された。しかし文禄4年(1595年)、秀次事件で秀次を弁護したことから、秀吉より秀次の与党として連座の罪に問われ、同年7月15日(8月20日)、摂津国茨木の大門寺において自害を命じられた。大門寺に血染めの経帷子が保存され、常陸大明神と記された墓碑がある。長男・高成(重武、重光、志摩守)も法花堂で切腹させられ梟首されたほか、娘も磔にかけられたという(「兼見卿記」)。戒名は常照院殿重高大居士。墓所は大阪府茨木市の大門寺。
子の木村重成(異説もある)は、幼年のために罪に問われることなく、豊臣秀頼の家臣として仕え、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で戦死した。
なお、朝鮮出兵時の国内における最前線である肥前国名護屋城には「木村重隆陣屋跡」が残っており、発掘調査がなされている。トイレ遺構などを確認している。