時報映画社
概要
編集教育映画、テレビアニメなどを手掛けていた会社である。本社は1994年に東京都港区浜松町一丁目25番5号より移転し東京都中央区日本橋小伝馬町16番6号に所在していた。
1961年2月21日設立。
作品
編集実写
編集教育映画
編集- 防衛運転追従と追越 (カラー、27分、配給:映研)[1]
- 求婚Uターン (カラー、27分、配給:映研)[1]
- 交差点 -処分者講習用- (カラー、20分、配給:映研)[1]
- 0.5ミリの悲劇 (モノクロ、26分、配給:映研)[2]
- 安全運転・追突防止編 (カラー、20分、配給:映研)[2]
- 対歩行者編-安全運転- (カラー、23分、配給:映研)[2]
- 追突 (カラー、25分、配給:映研)[2]
- 安全運転シリーズ-自然の法則- (カラー、20分、配給:映研)[2]
- あっ!あぶない-あなたを守る運転法- (カラー、22分、配給:映研)[2]
- 盲点 (カラー、20分、配給:映研)[2]
- わきみ運転 (カラー、23分、配給:映研)[2]
- 安全運転・右折編 (カラー、22分、配給:映研)[2]
- 怒りと運転 (カラー、27分、配給:映研)[3]
- 幼児とお年寄りを守ろう (カラー、25分、配給:映研)[3]
- 自転車の安全な乗り方教室 (モノクロ、20分、配給:映研)[3]
- 運転手さんありがとう (カラー、20分、配給:映研)[3]
- おり鶴の祈り (カラー、31分、配給:映研)[3]
- 歩行者保護 (カラー、20分、配給:映研)[3]
- みんな笑顔 (カラー、29分、配給:映研)[4]
- 大いなる前進 (モノクロ、26分・28分、配給:映研)[4]
- 第三の被害者 (カラー、23分、配給:映研)[4]
- ぼくらの交通安全 (モノクロ、27分、配給:映研)[4]
- 泣き寝入はイヤッ! (カラー、26分、配給:映研)[4]
- この子いずこへ (モノクロ、27分、配給:映研)[4]
- 飲酒運転の悲劇 (カラー、23分、配給:映研)[5]
- 聴聞(ちょうもん) (モノクロ、18分、配給:映研)[5]
- 戦慄の記録 (カラー、27分、配給:映研)[5]
- ひきにげ (カラー、31分、配給:映研)[5]
- 転落事故 (カラー、26分、配給:映研)[5]
- スピードの恐怖 (カラー、22分、配給:映研)[5]
- 安全運転 (モノクロ、27分、配給:映研)[6]
- ある運転者の記録 (モノクロ、27分、配給:映研)[6]
- 明るい交通 (1960年)[7]
- 街の狼 (1961年、モノクロ、25分、企画:警察庁防犯部防犯課)[8]
- あぶない男たち (1961年、モノクロ、20分、企画:警察庁防犯部防犯課)[8]
- 太陽は沈まず (1962年[9]、企画:全日本交通安全協会[9]、モノクロ、20分、配給:映研)[4]
- 価値なき13分 (1963年[9]、企画:警察庁交通局[9]、モノクロ、21分、配給:映研)[5]
- 黄色い小旗 (1963年[9]、企画:警察庁交通局[9]、カラー、25分、配給:映研)[3]
- 日本のおまつり・甘酒まつり (1963年)[9]
PR映画
編集- 高速旋盤 (1960年、企画:昌運工作所)[7]
- ブローチとブローチ盤 (1960年、企画:不二越鋼材)[7]
- いたちッ子 (1961年、監修:全国学校給食会連合会)[7]
- 背負った子に浅瀬 (1961年、委託:三菱電機)[10]
- 丸に丸 (1961年、委託:昭和産業)[10]
- 女人の砦 (1961年、委託:資生堂)[10]
- モード・ハント (1961年、委託:森永製菓)[10]
- インスタント・ノイローゼ(1961年、委託:菱和自動車)[10]
- 幸福の設計 (1962年、企画:日本冷凍食品協会)[9]
- 美へのごあんない (1962年、企画:資生堂)[9]
自主制作映画
編集- 鳥は自由なのに (1975年)[11]
アニメ
編集テレビシリーズ
編集映画
編集- ぜんちゃんの交通日記 (1962年[9]、企画:全日本交通安全協会[9]、カラー、25分、配給:映研、人形アニメ)[4]
- ぜんちゃん、つーちゃん (1971年[15]、監修:全日本交通安全協会[15]、カラー、15分、配給:映研)[4]
- ツーちゃんといっしょに見よう (1973年[15]、カラー、15分、配給:映研)[3]
- トンボになったヤッちゃん (1973年[15]、カラー、15分、配給:映研)[4]
- ヤッちゃんと火星の子 (1974年、企画:全日本交通安全協会)[15]
- ヤッちゃんと新入生 (1975年、企画:全日本交通安全協会)[15]
ピンク映画
編集脚注
編集- ^ a b c 『教育機器・教材総合目録 昭和49年版』全日本能率連盟人間能力開発センター、1974年、355頁。
- ^ a b c d e f g h i 『教育機器・教材総合目録 昭和49年版』全日本能率連盟人間能力開発センター、1974年、356頁。
- ^ a b c d e f g h 『教育機器・教材総合目録 昭和49年版』全日本能率連盟人間能力開発センター、1974年、357頁。
- ^ a b c d e f g h i j 『教育機器・教材総合目録 昭和49年版』全日本能率連盟人間能力開発センター、1974年、358頁。
- ^ a b c d e f g 『教育機器・教材総合目録 昭和49年版』全日本能率連盟人間能力開発センター、1974年、359頁。
- ^ a b 『教育機器・教材総合目録 昭和49年版』全日本能率連盟人間能力開発センター、1974年、360頁。
- ^ a b c d 『映画年鑑 1962年版』時事通信社、1962年。
- ^ a b 『PR映画年鑑 1966年版』日本証券投資協会、1966年、184頁。
- ^ a b c d e f g h i j k 『映画年鑑 1964年版』時事通信社、1964年。
- ^ a b c d e 『映画年鑑 1963年版』時事通信社、1963年。
- ^ 『読売新聞』1975年7月19日付夕刊
- ^ 『週刊文春』昭和44年12月1日号
- ^ アニメージュ編集部『TVアニメ25年史』徳間書店、1988年、53頁。
- ^ アニメージュ編集部『TVアニメ25年史』徳間書店、1988年、51頁。
- ^ a b c d e f 山口且訓, 渡辺泰『日本アニメーション映画史』有文社、1977年。
- ^ 『映画年鑑 1974年版』時事通信社、1974年。