明石元二郎
明石 元二郎(あかし もとじろう、1864年9月1日(元治元年8月1日) - 1919年(大正8年)10月26日)は、明治・大正期の日本の陸軍軍人。陸軍大将正三位勲一等功三級男爵。第7代台湾総督。福岡藩出身。妻は国子(郡保宗の二女[1])、後妻に黒田信子(黒田一葦の娘)。明石泰二郎(陸士27期、陸軍少将)は甥[2]。
明石元二郎 | |
生誕 |
1864年9月1日 日本 筑前国福岡 |
死没 |
1919年10月26日(55歳没) 日本 福岡県 |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1889年 - 1919年 |
最終階級 | 陸軍大将 |
経歴
編集生い立ち
編集福岡藩士・明石助九郎貞儀[2]の次男として元治元年(1864年)に福岡藩・福岡城下の大名町に生まれる[3]。明石家の家格は「大組」(福岡藩黒田家の家中で、最上位の家格「中老」に次ぐ2番目の家格[4]。)であり、1300石の大身であった[5][6]。
1877年(明治10年)6月に陸軍士官学校幼年生徒となった[2]。1883年(明治16年)12月25日、陸軍士官学校(旧陸士6期)を卒業し、同日、歩兵少尉に任じられた[7]。更に1889年(明治22年)に陸軍大学校(5期)を卒業する。
ドイツ留学、仏印出張、米西戦争のマニラ観戦武官を経て、1901年(明治34年)にフランス公使館付陸軍武官となる。1902年(明治35年)にロシア帝国公使館付陸軍武官に転任、のちに首相となる田中義一陸軍武官から業務を引き継ぐ。当時からロシア国内の情報を収集し、ロシアの反政府分子との接触を試みる工作活動が行われていた[8]。
首都ペテルブルクのロシア公使館に着任後、日英同盟に基づいた情報協力により、イギリス秘密情報部のスパイであるシドニー・ライリーと知り合い、友人となった。明石の依頼により、ライリーは1903年(明治36年)から建築用木材の貿易商に偽装して戦略的要衝である旅順に移住し材木会社を開業、ロシア軍司令部の信頼を得て、ロシア軍の動向に関する情報や、旅順要塞の図面などをイギリスおよび日本にもたらしている。
日露戦争での諜報活動
編集明治37年(1904年)、日露戦争が開戦すると駐ロシア公使館は中立国スウェーデンのストックホルムに移り、明石(当時の階級は大佐)は以後この地を本拠として活動する。
開戦直前の1月、参謀本部次長児玉源太郎は開戦後もロシア国内の情況を把握するため、明石に対し「ペテルブルク、モスクワ、オデッサに非ロシア人の外国人を情報提供者として2名ずつ配置」するよう指令電報を発した。さらに明石は日露開戦と同時に参謀本部直属のヨーロッパ駐在参謀という臨時職に就き、ストックホルムに移った際にも児玉から、「お前を信じているぞ」という趣旨の激励の電報が届いた[9]。
明石はロシア支配下にある国や地域の反ロシア運動を支援し、またロシア国内の反政府勢力と連絡を取ってロシアを内側から揺さぶる為、様々な人物と接触した。例を挙げると、フィンランドの反ロシア抵抗運動指導者カストレーン、シリヤクス、スウェーデン陸軍将校アミノフ、ポーランド国民同盟ドモフスキ、バリツキ、社会革命党チャイコフスキー、グルジア党デカノージ、ポーランド社会党左右両派、他ロシア国内の社会主義政党指導者、民族独立運動指導者などである。特に、当時革命運動の主導権を握っていたコンニ・シリヤクス (Konni Zilliacus)率いる フィンランド革命党などを通じ、様々な抵抗運動組織と連絡を取り、資金や銃火器を渡し、デモやストライキ、鉄道破壊工作などのサボタージュが展開されていった。内、鉄道破壊工作などは失敗するものの、デモ・ストライキは先鋭化し、ロシア軍はその鎮圧のために一定の兵力を割かねばならず、極東へ派遣しにくい状況が作られた[10]。
明石の工作の目的は、ロシア国内の反乱分子の糾合や、革命政党エスエル(社会革命党)を率いるエヴノ・アゼフなどへの資金援助を通じ、ロシア国内の反戦、反政府運動の火に油を注ぎ、ロシアの対日戦争継続の意図を挫折させようとしたものであり、満州軍においては、欧州の明石工作をロシア将兵に檄文等で知らせて戦意を喪失させようと計ったり、また欧州情勢を受けてロシア軍の後方攪乱活動を盛んに行ったりした(満州義軍)。
また明治37年(1904年)5月、ポーランドの反ロシア民族主義者ロマン・ドモフスキが児玉源太郎と会談した。満洲軍設置の折、激務であった児玉がわざわざ時間を割いたのは、明石から情報を得ており、連携が取れていた為である[11]。
日露戦争中全般にわたり、ロシア国内の政情不安を画策してロシアの継戦を困難にし、日本の勝利に貢献することを意図した明石の活動は、後に、明石自身が著した『落花流水』などを通じて巷にも日本陸軍最大の謀略戦と称えられるようになった。参謀次長長岡外史は、「明石の活躍は陸軍10個師団に相当する」と評し、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世も、「明石元二郎一人で、満州の日本軍20万人に匹敵する戦果を上げている。」と言って称えたと紹介する文献もある[12]。成果の度合いや後述するレーニンとの会見の有無については別にしても、これら明石の謀略活動の意図に関しては研究者の間でもほぼ見解は一致している。
なお、前述した『落花流水』や司馬遼太郎が執筆した小説『坂の上の雲』において、以下のような粗筋がベースになって描かれている。
明治37年(1904年)、明石はジュネーヴにあったレーニン自宅で会談し、レーニンが率いる社会主義運動に日本政府が資金援助することを申し出た。レーニンは、当初これは祖国を裏切る行為であると言って拒否したが、明石は「タタール人の君がタタールを支配しているロシア人の大首長であるロマノフを倒すのに日本の力を借りたからといって何が裏切りなのだ」といって説き伏せ、レーニンをロシアに送り込むことに成功した。その他にも内務大臣プレーヴェの暗殺、血の日曜日事件、戦艦ポチョムキンの叛乱等に関与した。これらの明石の工作が、後のロシア革命の成功へと繋がっていく。後にレーニンは次のように語っている。「日本の明石大佐には本当に感謝している。感謝状を出したいほどである。」と。
この件は歴史家から疑念が示されている。例えば、稲葉千晴が明石が拠点とした北欧の研究者と共同して行った明石の工作の検証作業では、レーニンと会談した事実や、レーニンが上記のような発言を行った事実は確認されず、現地でもそのような説は流布していないことが示された上、ロシア帝国の公安警察であるオフラナが明石の行動をチェックしており、明石が血の日曜日事件やポチョムキンの反乱に直接関与していた根拠は薄いとしている[13][14][15]。ただし一方で稲葉は、日露戦争において欧州での日本の情報活動が組織的になされていたこと、その中で明石の収集した情報が量と質で優れていたことについては評価している[16]。今井はレーニンと会談したという話を、日露戦争後に陸軍で傍流扱いされた明石の屈折した感情から出た言葉ではないかと推定している。また西原和海も、著書において“レーニンは明石の申し出を断った”と記している[17]。
日本国内においては、日露戦争での明石の活動が評価されているが、対戦国であったロシア側は、明石の活動がロシアの対日警戒、対日諜報活動を促したとしている。ロシアの月刊誌『ロージナ』(Родина、『祖国』の意)は2004年の日露戦争特集号で、日本の参謀本部や外務省は満州において中国人やモンゴル人を使って強力な情報網を構築したが、このことがロシア(ソ連時代)の対日情報工作の強化(一部はゾルゲ事件のように明るみに出る)に繋がったこと、また日本自身の防諜体制の甘さをもあわせて指摘している。日本側もフランス人記者を使ったロシアからの諜報工作に晒されていたのである[18]。
日露戦争中、明石は一人で巨額の工作資金を消費した。それは当時の国家予算約2億3,000万円の内、100万円(今の価値では400億円以上)程であったが、参謀総長山縣有朋、参謀次長長岡外史らの決断により参謀本部から支給され、ロシア革命支援工作などにも利用された。この点について評論家西部邁は「日露戦争のときには、日本にも明石元二郎という立派なスパイがいました。彼が使った工作資金はいまの標準でいうと数百億円ですってね。一兆円という話も聞いたことがある。それで第一次ロシア革命を煽り立てるわけです。これにはさすがのツアーも参ってしまった。」と述べている[19]。
日露戦争後
編集明治43年(1910年)7月、寺内正毅朝鮮統監の下で憲兵司令官と警務総長を兼務し、朝鮮併合の過程で武断政治を推し進めた。
大正3年(1914年)4月、参謀次長となるが、翌10月熊本の第6師団長に転じる。問題なく職責を全うしていたにもかかわらず、わずか1年で熊本の第六師団長に転補させられた背景には、陸軍内における「スパイ蔑視」の風潮がある。児玉源太郎や山縣有朋はそのような風潮を深く認識していたが、同時に情報の重要性も理解していた為、明石や福島安正などの情報畑の人材を積極的に引き立てていた。だが依然明石を警戒する空気は根強く、結果的に更迭された。明石自身単独行動が多く、派閥行動や組織内遊泳に長ける環境になかったことから、情報将校が出世し辛い、ひいては情報を軽視する風潮につながった可能性が指摘されている[20]。
同7年(1918年)7月に第7代台湾総督に就任、陸軍大将に進級する。総督在任中は台湾電力を設立し水力発電事業を推進したほか、鉄道貨物輸送の停滞を消解するため新たに海岸線を敷設したり、日本人と台湾人が均等に教育を受けられるよう法を改正して台湾人にも帝国大学進学への道を開いたり[21]、今日でも台湾最大級の銀行である華南銀行を設立したりしている。また、八田與一が嘉南平原の旱魃・洪水対策のために計画した嘉南大圳の建設を承認し、台湾総督府の年間予算の3分の1以上にもなったその建設予算を獲得することに尽力した。大正8年(1919年)8月、台湾総督府から分離して独立の軍となった台湾軍の初代司令官を兼務する。
台湾総督の次は総理大臣にと周囲からは期待されていたようだが、総督在任1年4か月の大正8年(1919年)10月、公務のため本土へ渡航する洋上で病を患て郷里の福岡で死去した。満55歳だった。「余の死体はこのまま台湾に埋葬せよ。いまだ実行の方針を確立せずして、中途に斃れるは千載の恨事なり。余は死して護国の鬼となり、台民の鎮護たらざるべからず」との遺言によって、遺骸は福岡から台湾に移され、台北市の三板橋墓地(現在の林森公園)に埋葬された。その後、1999年に現地有志により台北県三芝郷(現在の新北市三芝区)の福音山基督教墓地へ改葬されている。墓前にあった鳥居は林森公園の整備中二二八和平公園内に建てられていたが、2010年11月に再び元の地に戻された[22]。また、生誕地付近の勝立寺には遺髪と爪を収めた墓がある。
家族
編集栄典・授章・授賞
編集- 位階
- 1884年(明治17年)2月9日 - 正八位[25]
- 1889年(明治22年)7月15日 - 従七位[26]
- 1892年(明治25年)1月12日 - 正七位[27]
- 1896年(明治29年)4月20日 - 従六位[28]
- 1901年(明治34年)3月11日 - 正六位[29]
- 1904年(明治37年)2月19日 - 従五位[30]
- 1907年(明治40年)12月10日 - 正五位[31]
- 1912年(大正元年)12月28日 - 従四位[32]
- 1915年(大正4年)10月20日 - 正四位[33]
- 1918年(大正7年)7月31日 - 従三位[34]
- 1919年(大正8年)10月24日 - 正三位[35]
- 勲章等
- 1889年(明治22年)11月29日 - 大日本帝国憲法発布記念章[36]
- 1895年(明治28年)
- 1906年(明治39年)4月1日 - 功三級金鵄勲章[39]
- 1908年(明治41年)12月1日 - 勲二等瑞宝章[40]
- 1909年(明治42年)4月18日 - 皇太子渡韓記念章[41]
- 1912年(大正元年)8月1日 - 韓国併合記念章[42]
- 1915年(大正4年)
- 1919年(大正8年)
- 外国勲章佩用允許
エピソード
編集この節に雑多な内容が羅列されています。 |
- ほとんど歯を磨く習慣がなく、それが晩年まで続いた[48]。
- 服装について無頓着であり、陸軍士官学校時代、制服のズボンが緩く、へそを出しながらズボンの裾を引きずって歩いていた[48]。
- 整理整頓にも無頓着で、台湾総督時、官邸を一切掃除させず、身辺が荒れ放題となっていた[48]。
- 絵葉書が好きで、玄関・応接間・寝室など家中に絵葉書を貼りつけた為、まるで7、8歳の子供部屋のようになっていた[48]。
- 外国語と算術に長けていた。
- あるパーティの席で、ドイツとロシアの士官がおり、ドイツの士官が明石にフランス語で「貴官はドイツ語ができますか」と聞いてきた。元二郎は、「フランス語がやっとです」とわざと下手なフランス語で答えた。すると、そのドイツの士官は、元二郎を無視して、ドイツ語でロシアの士官と重要な機密について話し始めた。しかし、元二郎は、ドイツ語は完璧に理解しており、その機密をすべて聞いてしまったという。元二郎は、フランス語、ロシア語、英語も完璧に理解していた[49]。
- 製図書きにも優れており、ある外国人のパーティに出席した際、名刺を忘れた八代六郎の為にその場で器用に紙を裂き、まるで印刷してあったかのように文字を入れ、10枚ばかり即席の名刺を作成した[50]。
- 製図の授業の際、明石は鼻水を垂らしながらもそれを手で拭い、なおかつその手でまた製図をいじっていたので、製図が真っ黒になってしまっていた[50]。
- 陸軍幼年学校時代の明石は、お稲荷様にお供えされた赤飯の盗み食い常習犯であり、また夜中にボートに乗って転覆させたりなど悪戯を繰り返していたが、教師や先輩、友人などから嫌われたり憎まれたりすることはなかった。陸軍士官学校時代も、周りの同僚や先輩などから好かれており、何かにつけ明石のもとに集まったり、噂の対象になっていたという[51]。
- 陸大時代は下宿に猫を一匹飼っており、軍服に猫の毛が付いたまま講義に出席していたようである。
- 何かに熱中すると、ほかのことを完全に忘れてしまう性格でもあった。上原勇作の手引きで山縣有朋と対談した時、どんどん話にのめりこんでゆき、しまいには小便を垂れ流していることに気がつかずそのまま熱弁を振るうに至ってしまった。山縣もその熱意にほだされ、小便を気にしながら対談を続けざるを得なかったという[50]。
- 協調性に欠けていて風采が上がらず、また運動音痴であったとされており、ロシア公使館付陸軍武官時代の上司にあたる駐露公使の栗野慎一郎でさえ、彼の能力を見抜けず、開戦の直前に外務省に「優秀な間諜が欲しい」と要請したほどであった。栗野は、明石と同じ 修猷館出身である[52]。
- 日清戦争後の参謀本部勤務中に勃発した米西戦争では、観戦武官としてフィリピンに赴いた。この時、アメリカ軍は、陸戦においてはスペイン軍とは直接交戦せず、フィリピンの独立運動の指導者アギナルドの率いる市民軍に武器と資金を援助し、これを支援した。アメリカ軍の支援を受けたアギナルド市民軍は、各地でスペイン軍を撃破し、これを駆逐した。明石は、この戦いを観戦することで、後のロシア革命工作のヒント(敵の中の反対勢力を支援する)にしたと言われている。
- 明石の行ったロシア革命工作は、後に陸軍中野学校で諜報活動のモデルケースとして講義されている。
- ロシアでの偽名は、アバズレーエフであった。
- 任務のため、スパイ活動や憲兵政治など社会の暗部で活躍したが、私生活では極めて清廉であった。その一例として、革命工作資金の100万円のうち27万円が使い切れずに残ってしまった。本来軍の機密に関する金であり、返済の必要はないのだが、明石は明細書を付けて参謀次長の長岡外史に全額返済した。うち100ルーブル不足していたが、明石が列車のトイレで落としてしまった分であった。
- ヨーロッパ赴任中、泥靴のまま公使館に入り、そのまま平気な顔をしていた[48]。
- 日露戦争後高官となった後も、明石は薄汚い布団で犬を抱きながら寝ていた[48]。
- 死因については、脳溢血説、肝硬変説などがある。生前、大酒飲みだったので、肝硬変説は特に有力視されているが、最近では当時世界的に流行していたスペイン風邪(インフルエンザの1種)ではなかったかと言われている。
- 明石正風(黒田孝高の母方の祖父)の子、安正の末裔である[53]。
- 長男の明石元長は、根本博と通訳の吉村是二を国共内戦での国民党軍事顧問とすべく、日本から台湾に昭和24年(1949年)6月に密入国(宮崎県延岡市の海岸から、密航した)させることに尽力した。しかし、その入国や帰国(1952年6月)を見届けることなく、根本らの出国からわずか四日後に、激しい過労により42歳で急死する。2009年10月25日に台湾で行われた古寧頭戦役60周年式典には、明石の子孫は、日本人軍事顧問団の遺族とともに招待され歓待された[54]。
- 明石が台湾総督であったときに明石の秘書官を務めていた石井光次郎は、1956年1月の緒方竹虎との新春対談において、亡くなる直前の明石元二郎のもとを訪れた時の様子を次のように語っている。(『緒方竹虎』(修猷通信、1956年)より、原文のまま)
レーニン、トロッキーを使つたその時分の丁度ロシヤの革命の時だつたものだから、僕はあの時行つたら頻りに机の抽出しを引出しながら書類を散らかしてござる。「何ですか」と聞くと「レーニンとかトロッキーとかというのは、あいつ等は皆、俺が使つてやつたんだが妙なことになつたものだと思う。そいつ等が何か書いたものがいろいろあつたと思つて今、暇だから探していたんだ」といわれた。その時「どうですか、この革命は続きますか」ときいたら「やあ、暫くはいいだろうが続かん」というてござつたが、こいつあ見当違いだつた。
- 日本が勝利した日露戦争後においてドイツの皇帝ヴィルヘルム2世は『明石一人で日本軍20万人に匹敵する成果を挙げた』と語っていたとされる。
著書
編集演じた俳優
編集脚注
編集- ^ 『筑紫史談』第18集、筑紫史談会、1918年、45頁。
- ^ a b c 半藤 2013, 位置No. 3808-3818, 陸軍大将略歴〔大正期〕:明石元二郎
- ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 11頁。
- ^ “No.380 企画展 「武士の履歴書」(平成23年2月15日 - 4月10日)”. 福岡市博物館. 2022年3月21日閲覧。
- ^ 野村 2005, ずんだれ士官は往く
- ^ 半藤 2013, 位置番号 1258-1371、明石元二郎:日露戦争の功労者か探偵政治の悪魔か
- ^ 『官報』第151号、明治16年12月27日。
- ^ 瀧澤中『日本はなぜ日露戦争に勝てたのか(中経出版)』p.145
- ^ 瀧澤中『日本はなぜ日露戦争に勝てたのか(中経出版)』p.146
- ^ 瀧澤中『日本はなぜ日露戦争に勝てたのか(中経出版)』p.147-p.148
- ^ 瀧澤中『日本はなぜ日露戦争に勝てたのか(中経出版)』p.163-p.164
- ^ 半藤一利・横山恵一・秦郁彦・原剛『歴代陸軍大将全覧(大正篇)』 中公新書ラクレ
- ^ 今井公雄「大国ロシアを震撼させた陰の将軍」『歴史群像シリーズ(日露戦争)』24 1991年(平成3年)6月(リンク先の著者のウェブサイトで同記事が読める)
- ^ 『明石工作 謀略の日露戦争』丸善ライブラリー 1995年(平成7年)
- ^ 秦郁彦「明石元二郎の破壊活動は失敗した」『明治・大正・昭和30の「真実」』文藝春秋 2003年(平成15年)8月
なお、同書では乃木希典についても司馬が揶揄したような愚将ではないことを実証的に主張した。 - ^ 稲葉千晴「スウェーデンに於ける日本の工作は失敗だったか~」北欧文化協会 2000年(平成12年)12月
- ^ 西原『スパイひみつ大作戦』、小学館入門百科 シリーズ37
- ^ ドミトリー・パブロフ(Dmitri Pavlov)名越陽子訳「[Foresight Nonfiction]日露戦争で暗躍した「もう一人のゾルゲ」」『フォーサイト』新潮社 2005年(平成17年)7月
著者は1954年(昭和29年)生まれ。モスクワ大学歴史学部卒、歴史学博士。投稿当時モスクワ工科大学教授。著書に『露日戦争』『メンシェビキ』『第一次ロシア革命』など。 - ^ 西部邁、黒鉄ヒロシ『もはや、これまで: 経綸酔狂問答』PHP研究所、2013年、152頁。
- ^ 瀧澤中『日本はなぜ日露戦争に勝てたのか(中経出版)』p.180-p.181
- ^ 後に第8〜9期中華民国総統をつとめた李登輝は京都帝国大学出身である。
- ^ ただし元の位置に正確に戻されたわけではなく、秘書官を務めた鎌田正威の墓前にあった小鳥居と並べて建てられている(日本李登輝友の会台北事務所[1])。
- ^ 明石元二郎『人事興信録』初版 [明治36(1903)年4月]
- ^ 明石元二郎『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]
- ^ 『官報』第228号「叙任」1884年4月7日。
- ^ 『官報』第1820号「叙任及辞令」1889年7月24日。
- ^ 『官報』第2558号「叙任及辞令」1892年1月13日。
- ^ 『官報』第3840号「叙任及辞令」1896年4月21日。
- ^ 『官報』第5304号「叙任及辞令」1901年3月12日。
- ^ 『官報』第6188号「叙任及辞令」1904年2月20日。
- ^ 『官報』第7337号「叙任及辞令」1907年12月11日。
- ^ 『官報』第126号「叙任及辞令」1912年12月29日。
- ^ 『官報』第967号「叙任及辞令」1915年10月21日。
- ^ 『官報』第1799号「叙任及辞令」1918年8月1日。
- ^ a b 『官報』第2169号「叙任及辞令」1919年10月27日。
- ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1889年12月29日。
- ^ 『官報』第3741号「叙任及辞令」1895年12月16日。
- ^ 『官報』第3849号・付録「辞令」1896年5月1日。
- ^ 中野文庫 - 旧・金鵄勲章受章者一覧
- ^ 『官報』第7808号・付録「辞令」1909年7月6日。
- ^ 『官報』第7771号「叙任及辞令」1909年5月24日。
- ^ 『官報』第205号・付録「辞令」1913年4月9日。
- ^ 『官報』第979号「叙任及辞令」1915年11月4日。
- ^ 『官報』第1194号「叙任及辞令」1916年7月24日。
- ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
- ^ 『官報』第2903号「叙任及辞令」1922年4月10日。
- ^ 『官報』第5039号「叙任及辞令」1900年4月23日。
- ^ a b c d e f 瀧澤中『日本はなぜ日露戦争に勝てたのか(中経出版)』p.171
- ^ 半藤一利・横山恵一・秦郁彦・原剛『歴代陸軍大将全覧(大正篇)』 中公新書ラクレ
- ^ a b c 瀧澤中『日本はなぜ日露戦争に勝てたのか(中経出版)』p.172
- ^ 瀧澤中『日本はなぜ日露戦争に勝てたのか(中経出版)』p.175
- ^ 第13回全国藩校サミット 福岡大会 修猷山脈
- ^ 小森徳治『明石元二郎 上巻』原書房、1968年
- ^ “古寧頭戦役60周年に日本の軍事顧問団関係者の家族らが台湾を訪問”. 台湾週報 (台北駐日経済文化代表処). (2009年10月27日). オリジナルの2010年8月18日時点におけるアーカイブ。 2011年11月25日閲覧。
参考文献
編集- 小山勝清著『明石大佐とロシア革命』原書房 1984年(昭和59年)(1966年(昭和41年)出版書を改題)
- 司馬遼太郎著『坂の上の雲』(小説)文藝春秋 新装版 1999年(平成11年)(初出 1968年(昭和43年))、ISBN 4167105764 (※新装版(六)第3章「大諜報」に明石の詳述あり)
- 通説の普及への影響を各研究者から指摘されている。
- 杉森久英著『錆びたサーベル』河出書房新社、1970年(昭和45年)(集英社文庫、1980年(昭和55年))
- 水木楊著『動乱はわが掌中にあり-情報将校明石元二郎の日露戦争-』新潮社、1991年(平成3年)(新潮文庫、1994年(平成6年))
- 黒羽茂著『日ソ諜報戦の軌跡―明石工作とゾルゲ工作』日本出版放送企画 1991年(平成3年)、ISBN 4795253242
- D.P.パブロフ+S.A.ペトロフ著、左近毅訳『日露戦争の秘密-ロシア側史料で明るみに出た諜報戦の内幕-』成文社、1994年(平成6年)
- 稲葉千晴著『明石工作―謀略の日露戦争』丸善ライブラリー 1995年(平成7年) ISBN 462105158X
- 篠原昌人著『陸軍大将福島安正と情報戦略』芙蓉書房 2002年(平成14年)
- 個人を軸としながら日露戦争期を含む明治・大正期の日本の軍事諜報活動を俯瞰している。明石もその駒の一つであった。
- 野村敏雄『明石元二郎:日露戦争を勝利に導いた「奇略の参謀」』PHP研究所〈PHP文庫〉、2005年。ISBN 978-4-569-66403-3。
- 半藤一利・横山恵一・秦郁彦・原剛『歴代陸軍大将全覧(大正篇)』 中公新書ラクレ 2009年(平成21年) ISBN 4121503074
- 半藤一利 他『歴代陸軍大将全覧 大正編』(Amazon Kindle)中央公論新社〈中公新書ラクレ〉、2013年。
- 前坂俊之著『日露インテリジェンス戦争を制した天才参謀明石元二郎大佐』 新人物往来社 2011年1月(ISBN 978-4-404-03964-4)
- ゲームジャーナル編集部『坂の上の雲5つの疑問』(並木書房、2011年)ISBN 4890632840
- 清水克之著『豪快痛快 世界の歴史を変えた日本人―明石元二郎の生涯 』 桜の花出版 2009年12月(ISBN 978-4434139437)
- 四條たか子著『世界が愛した日本2』竹書房、2011年(平成23年)
- 上垣外憲一著『暗殺・伊藤博文』ちくま新書2000年(平成12年)
- 伊藤博文の暗殺が陸軍の謀略ではなかったかという歴史推理。明石が暗殺計画の立案者ではないかと記している。
関連文献
編集- 木立順一著『救国論 相反する二つの正義から見える人類史の課題と希望』メディアポート 2015年(平成27年)、ISBN 978-4865581089。
関連項目
編集外部リンク
編集- 国立国会図書館 憲政資料室 明石元二郎関係文書(寄託)
- 国立国会図書館 憲政資料室 明石元二郎関係文書(所蔵)
- 明石元二郎 -世界をゆさぶったスパイは、博多のダンディズムの中から生まれた- 西日本シティ銀行(対談:昭和58年4月の再掲) 魚拓
公職 | ||
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先代 岡喜七郎 |
朝鮮統監府警務総長 第3代:1910年7月1日 - 1914年4月17日 |
次代 立花小一郎 |
先代 安東貞美 |
台湾総督 第7代:1918年6月6日 - 1919年10月26日 |
次代 田健治郎 |
軍職 | ||
先代 梅沢道治 |
第6師団長 第11代:1915年10月4日 - 1918年6月6日 |
次代 小池安之 |
日本の爵位 | ||
先代 叙爵 |
男爵 明石(元二郎)家初代 1919年 |
次代 明石元長 |