戸田氏庸
戸田 氏庸(とだ うじつね、天明3年4月5日(1783年5月5日)[1] - 天保12年3月19日(1841年5月9日))は、美濃大垣藩の第8代藩主。大垣藩戸田家9代。
第7代藩主・戸田氏教の長男。母は遊舞(鈴木氏)。正室は戸田氏養の娘・賀津。子に戸田氏正(長男)、土井利順(次男)、堀田正義(三男)、北条氏久(四男)、娘(板倉勝職正室のち細川利用正室)、娘(青山幸哉正室)、娘(戸田氏有正室)、娘(戸田氏寿正室)、娘(戸田氏敏養女)、娘(土井利忠継室)ら。官位は従五位下。伊賀守。采女正。
天明3年(1783年)4月5日生まれ(安永9年(1780年)4月3日生まれともされる)。寛政8年(1796年)5月15日、将軍徳川家斉に拝謁する。寛政9年12月18日、従五位下伊賀守に叙任する。文化3年(1806年)4月、父の死去により同年6月11日に家督を継いだ。文政3年(1819年)12月、従四位下に昇進する。天保7年(1836年)12月16日、侍従に任官する。
藩政においては大垣城天守閣の修築、藩校・致道館(大垣市立興文小学校の前身)の設立などに尽力した。
しかし藩財政の悪化がいよいよ深刻となる中での天保12年(1841年)3月19日、59歳で死去し、家督は長男の氏正が継いだ。法号は霊誉瑞雲泰岳院。墓所は岐阜県大垣市西外側町の円通寺。