島田組(しまだぐみ)は、京都で「蛭子屋」を名乗った江戸時代の豪商。呉服商、両替商を営んでいた。

概要

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元禄年間に山城国綴喜郡内里村(京都府八幡市)から京都に奉公に出た島田八郎左衛門が、京都で呉服商を創業し、次いで江戸尾張町、大坂天満橋に開店した。当初、徳田屋伝兵衛と称していたが、将軍徳川吉宗から蛭子の盃を拝領したことで「蛭子屋」を屋号とし、当主は八郎左衛門を称した。

1752年(宝永2年)、幕府の「金銀御為替御用達」十人組に加入し、両替業を営み[1]、 幕末になると呉服業は漸次衰退し、金銀御為替御用達も十人組で残るのは、小野組と島田組のみとなった。

1868年1月(慶応3年12月)に明治政府は財源確保のために「金穀出納所」を設けたさいに、三井三郎助[2]・小野善助とともに島田八郎左衛門を「金穀出納御用達」とし翌慶応4年1月には「出納所御為替御用達」に任じた。

島田組の破綻

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1874年(明治7年)、官全抵当増額令(大蔵省乙号11達)によって、預り金全額に相当する抵当物の提出を求められると、その調達ができず小野組とともに閉店した。当主・島田三郎兵衛の大阪高麗橋の邸宅は1877年に藤田伝三郎に売却された[3]

参考文献

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  • 下中 弘『日本史大辞典 第一巻』平凡社、1992年12月18日。ISBN 4-582-13101-8 
  • 下中 弘『日本史大辞典 第三巻』平凡社、1993年5月18日。ISBN 978-4582131031 

脚注

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  1. ^ この他、木綿、繰綿、真綿などを手広く扱っていた。
  2. ^ 京都商人である
  3. ^ 『藤田組の発展その虚実』佐藤英達, 三恵社, 2008、p19

関連事項

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