岡部長職
岡部 長職(おかべ ながもと、1855年1月4日〈嘉永7/安政元年11月16日〉 - 1925年〈大正14年〉12月27日)は、和泉国岸和田藩の第13代(最後)の藩主。明治・大正時代の政治家・外交官。英国公使館参事官、外務次官、司法大臣、東京府知事、枢密顧問官、法律取調委員会会長などを歴任。岸和田藩岡部家14代。官位は正二位勲一等子爵。
岡部 長職 おかべ ながもと | |
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肖像写真 | |
生年月日 |
1855年1月4日 (嘉永7/安政元年11月16日) |
出生地 | 江戸 |
没年月日 | 1925年12月27日(70歳没) |
出身校 |
慶應義塾 (現在の慶應義塾大学) |
所属政党 | 研究会 |
称号 |
子爵 正二位 勲一等旭日大綬章 |
第15代 司法大臣 | |
内閣 | 第2次桂内閣 |
在任期間 | 1908年7月14日 - 1911年8月30日 |
第15代 東京府知事 | |
内閣 | 第2次松方内閣 |
在任期間 | 1897年10月12日 - 1898年7月16日 |
選挙区 | 子爵議員 |
在任期間 | 1890年7月10日 - 1916年4月11日 |
岡部長職肖像(泉光寺所蔵) | |
時代 | 江戸時代後期 - 大正時代 |
生誕 | 嘉永7/安政元年11月16日(1855年1月4日) |
死没 | 大正14年(1925年)12月27日 |
改名 | 弥次郎(幼名)、長職 |
墓所 | 青山霊園と岸和田市泉光寺 |
官位 | 正二位 |
主君 | 明治天皇→大正天皇 |
藩 | 和泉岸和田藩主 |
氏族 | 岡部氏 |
父母 |
父:岡部長発、母:鳥居忠挙の娘 養父:岡部長寛 |
兄弟 | 長職、武子 |
妻 |
青山幸哉の娘・錫子 前田斉泰の娘・坻子 |
子 | 清子、鍾子、長景、長剛、村山長挙、栄子、豊子、盈子、小林長世、長量、久子、長建、長伸、長章 |
略歴
編集嘉永7/安政元年11月(1855年1月)、岸和田藩11代藩主岡部長発の長男として、江戸藩邸にて生まれる。母は鳥居忠挙の娘。幼名は弥次郎。長発は長職が生まれた翌年2月に早世し、家督は伯父の長寛(筑前守)が継いだ。長職は長寛の養嗣子となり、成長後に家督を譲られることとなった。
旧暦・明治元年12月(1869年2月)、長職は伯父の隠居に伴い家督を継いだ(従五位下、美濃守)。明治2年6月(1869年7月)、版籍奉還により知藩事となり、藩政改革を行なったが、明治4年7月(1871年8月)の廃藩置県で免官となり、太政官の命により東京へ移住した。
1874年(明治7年)、慶應義塾に入塾、福澤諭吉が「行状宜敷人物」と評して1875年(明治8年)11月、渡米させる。1878年(明治11年)、リバイバリストのドワイト・ライマン・ムーディーの説教を聞いて回心し、キリスト教信仰を持つことになる(日本組合基督教会の新島襄と沢山保羅への手紙で故郷・岸和田での伝道を依頼、1885年に岸和田教会が誕生[1])。1879年(明治12年)よりイェール大学シェフィールド科学学校 Sheffield Scientific School で学んだが中退。1882年(明治15年)9月には渡英し、ケンブリッジ大学で学び、ヨーロッパ各国を歴訪した。1883年(明治16年)10月の帰国後は、三好退蔵の自宅での聖書研究会に参加していたが、近くの霊南坂教会(現・日本基督教団霊南坂教会)に合流して教会員となった。
1884年(明治17年)7月8日、子爵を叙爵[2]。1886年(明治19年)3月に公使館参事官に任じられ、翌月には外務省条約改正掛を兼務。翌年12月に在英国公使館勤務を命じられ(翌月赴任)、臨時代理公使を務めた。1889年(明治22年)12月に外務次官に任じられ、1890年(明治23年)2月に帰国。同年7月10日には貴族院議員(子爵議員)にも選出された[3]。青木周蔵外相の下、条約改正に尽力したが、1891年(明治24年)6月、前月の大津事件の責任をとる形で、特命全権公使に転任した(94年6月迄)。
1897年(明治30年)10月、高等官一等に叙せられ、東京府知事に任じられる(翌年7月迄)。この頃には貴族院会派・研究会の幹事長を務めるなど、貴族院議員の中心人物として活躍していた。そのため、1908年(明治41年)7月には第2次桂太郎内閣の司法大臣(11年8月迄)に任じられ、1911年(明治44年)の大逆事件では、その処理に努めた。1916年(大正5年)4月8日には枢密顧問官に任じられ[4]、同月11日、貴族院議員を辞職した[5]。
その他、鉄道会議議員(1894年)、鉄道国有調査会副会長(1899年)、南満洲鉄道株式会社設立委員(1906年)、臨時仮名遣調査委員会委員(1908年)、法律取調委員会会長(1908年)、学習院評議会会員(1916年)、宗秩寮審議官(1924年)、東京保善商業学校校長等の要職を歴任。晩年は一木喜徳郎と共に大正天皇の側近として宮内省にあった。
1925年(大正14年)12月27日、かねてより患っていた脳梗塞が再発し、72歳で死去。天皇・皇后より祭資が下賜された。墓所は東京都港区の青山墓地。
身の丈180cmを超えるという、いわゆる「六尺豊かな大男」であり当時としてはもちろん、現代日本人男子と比較しても大柄な人物であった。
栄典
編集- 位階
- 1887年(明治20年)12月26日 - 正五位
- 1890年(明治23年)1月16日 - 従四位[6]
- 1894年(明治27年)6月29日 - 正四位
- 1901年(明治34年)6月21日 - 従三位
- 1910年(明治43年)7月1日 - 正三位
- 1920年(大正9年)7月10日 - 従二位
- 1925年(大正14年)12月27日 - 正二位[7]
- 勲章等
家族
編集- 父:岡部長発(1834年 - 1855年)
- 母:鳥居忠挙の娘
- 養父:岡部長寛(1809年 - 1887年)
- 最初の妻:錫子 - 青山幸哉の娘
- 2番目の妻:坻子(おかこ、1867年 - 1943年) - 前田斉泰の四女
- 生母不明の子女
長景は加藤高明(三菱財閥の創業者・岩崎弥太郎の娘婿)の長女・悦子と結婚しており、長章は岩崎輝弥(岩崎弥之助の三男)の長女・妙子と結婚したので、岡部家は三菱の創業者一族・岩崎家と二重の姻戚関係を持っているといえる。
脚注
編集- ^ 『沢山保羅』1977年、127頁
- ^ 『官報』第308号、明治17年7月9日。
- ^ 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』
- ^ 『官報』第1104号、大正5年4月10日。
- ^ 『官報』第1107号、大正5年4月13日。
- ^ 『官報』第1966号「叙任及辞令」1890年1月21日。
- ^ a b 『官報』第4005号「叙任及辞令」1925年12月29日。
- ^ 『太政官日誌』明治6年、第157号
- ^ 『官報』第7272号「叙任及辞令」1907年9月23日。
- ^ 『官報』第7954号「叙任及辞令」1909年12月27日。
- ^ 『官報』第8257号「叙任及辞令」1910年12月28日。
- ^ 『官報』第205号・付録「辞令」1913年4月9日。
- ^ 『官報』第1218号「叙任及辞令」1916年8月21日。
- ^ 中野文庫 - 旧・勲一等瑞宝章受章者一覧(戦前の部)
- ^ 『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。
- ^ 岡部長景『華族家庭録. 昭和11年12月調』
- ^ 婦女新聞社『婦人界三十五年』(1935.05)
参考文献
編集- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 小川原正道『評伝 岡部長職 明治を生きた最後の藩主』慶應義塾大学出版会、2006年7月。ISBN 4-7664-1291-5 。
- 国立公文書館所蔵「枢密院文書・枢密院高等官転免履歴書 大正ノ二『岡部長職』」1925年12月27日。
外部リンク
編集公職 | ||
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先代 千家尊福 |
法律取調委員会会長 1908年 - 1911年 |
次代 松田正久 |
先代 青木周蔵 |
外務次官 1889年 - 1891年 |
次代 林董 |
その他の役職 | ||
先代 (新設) |
日本倶楽部会長 1898年 - 1925年 |
次代 徳川家達 |
先代 芳野世経 |
東京府教育会会長 1898年 - 1925年 |
次代 松平頼寿 帝都教育会会長 |
先代 (新設) |
財団法人東京植民貿易語学校理事長 1922年 - 1925年 |
次代 松平頼寿 |
先代 (新設) |
保善商工教育財団理事長 1924年 - 1925年 |
次代 結城豊太郎 |
先代 志賀重昂 |
東京植民貿易語学校長 1918年 - 1923年 東京府教育会附属東京植民貿易語学校長 1918年 |
次代 浜野虎吉 |
先代 (新設) |
東京保善商業学校長 1923年 |
次代 浜野虎吉 |
先代 小山温 会長代理 |
監獄協会会長 1910年 - 1911年 |
次代 松田正久 |
日本の爵位 | ||
先代 叙爵 |
子爵 (岸和田)岡部家初代 1884年 - 1925年 |
次代 岡部長景 |