山口太一
山口 太一(やまぐち たいち、1935年12月20日[2] - 2010年6月18日[1])は、日本の漫画家。本名:山口 太一(やまぐち たかかつ)[1]。ナンセンス漫画や、児童向け学習漫画などで活躍した。
山口 太一 (やまぐち たいち) | |
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本名 | 山口 太一(やまぐち たかかつ)[1] |
生誕 |
1935年12月20日[2] 日本・福島県石城郡内郷村[2][3] |
死没 |
2010年6月18日(74歳没)[1] 日本・東京都東大和市[1] |
国籍 | 日本 |
職業 | 漫画家 |
活動期間 | 1955年 - 2009年 |
ジャンル |
ギャグ漫画、学習漫画、 4コマ漫画 |
代表作 | 『名探偵 荒馬宗介』[1] |
経歴・人物
編集福島県石城郡内郷村(のちのいわき市)出身[2][3]。1938年、公務員の父の赴任地だった満州・大連市に一家で渡る[2][3]。終戦時は普蘭店で迎え[2][3]、1946年12月に引き揚げ、母の郷里の千葉を経て、父の復員に合わせて内郷に戻る[3]。
中学時代に『寒がり屋のサブちゃん[2]』と題するストーリー漫画を『漫画少年』に投稿して特選に入賞[3]。このほか毎日中学生新聞や、地元紙に漫画を投稿する[3]。福島県立磐城高等学校卒業後、上京。東京芸術大学美術学部の受験に失敗する[3]が、東京に残って漫画の持ち込み活動を開始し、文藝春秋社で加藤芳郎を紹介される[2]。加藤宅をたずねたところ「書生をしてみる気はあるか」と誘われ、通う生活をはじめるが、わずか1週間で「漫画家で書生を長くやって成功した人は少ない。君ももう少し世間で苦労してきたらどうか[2]」と告げられ、新聞社の記事割り付け[3]と写植入れ[2]の仕事に従事。上京8ヶ月後、実家の父親の看病のためいったん帰郷[2]。父の仕事だった戸部炭鉱の測量事務員を継ぐかたわら、『常磐毎日新聞』で4コマ漫画『モクさん』を連載した[2]。
1959年に炭鉱の仕事をやめ、「失業保険と『モクさん』の稿料[2]」を頼りに再び上京し、銀座の広告会社[3]に勤務。そのかたわら、『週刊漫画TIMES』などに投稿を重ねた。翌年、同僚を通じて『デイリースポーツ』に4コマ漫画が新連載される計画を知り、加藤の強い推薦もあって山口の『Qさん』の連載が開始された[2]。
週刊誌の隆盛とともに、山口個人にかかる仕事の負担が殺人的になっていった。ある日、眠気を覚ますために顔を叩いたところ、あごの骨が割れ、歯を抜いての手術を余儀なくされた[3]。また、大人向け漫画は色気を売る方向にシフトしていったため、山口の「体質に合わず[2]」、1970年ごろ[3]から、『中2時代』(旺文社)、『○年の学習』(学研)[2]などに舞台を移し、もともとの志望だった児童・学生向け漫画に仕事の中心をシフトしていった。『○年の学習』には、『名探偵 荒馬宗介(めいたんてい あらまそうかい)』や『ガミガミじいさん』などの学習漫画を長きに渡り描き続けたほか、共同通信社の配信による各地の地方紙朝刊の4コマ漫画『ナウちゃん』『花野さん日記』を長年連載した[2]。
主な作品
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- 漫画
- Qさん(デイリースポーツ)[2]
- 名探偵 荒馬宗介(○年の学習)[2]
- ふぐしまくん(旺文社の学習雑誌)[2]
- ナウちゃん→花野さん日記(各地の地方紙朝刊)[2]
- ガミガミじいさん(○年の学習)[4]
- ロンロン船長
- まんがで学習シリーズ(あかね書房)[2]
- あーちぇりー天国(4コマ漫画 雑誌アーチェリーに連載坂本企画室~レオ・プランニング)
- 三選されるか池田さん(土曜漫画)[5]
- イラストレーション、キャラクターデザイン
脚注
編集- ^ a b c d e f g 山口太一氏死去 漫画家 共同通信、2010年6月22日(キャッシュ)
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v 寺光忠男『正伝・昭和漫画 ナンセンスの系譜』 毎日新聞社、1990年 pp.160-164
- ^ a b c d e f g h i j k l 第79号 一期一会 漫画家はペン1本で勝負できる 日々の新聞社
- ^ 国立国会図書館. “次の記事の掲載ページについて調査をお願いします。「3年の学習」1974年4月号~1975年3月号請求...”. レファレンス協同データベース. 2024年2月16日閲覧。
- ^ 東京都古書籍商業協同組合『【土曜漫画(昭和39年7月3日号)】関根義人・山口太一・松本正彦・トチボリ茂・滝十郎等 / 獅子王堂 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」』 。