小茂田青樹
1891-1933, 大正~昭和初期の日本画家
小茂田 青樹(おもだ せいじゅ、1891年(明治24年)10月30日 - 1933年(昭和8年)8月28日)は、大正から昭和初期の日本画家。「詩情の画家」と呼ばれる[1]。
おもだ せいじゅ 小茂田 青樹 | |
生年月日 | 1891年10月30日 |
---|---|
没年月日 | 1933年8月28日(41歳没) |
本名 | 小茂田 茂吉 |
出生地 | 埼玉県入間郡川越町 (現川越市) |
国籍 | 日本 |
職業 | 日本画家 |
活動期間 | 1913年 - 1933年 |
他の活動 | 帝国美術学校(現武蔵野美術大学)教授 |
略歴
編集埼玉県入間郡川越町(現川越市)に、呉服商・小島徳右衛門の次男として生まれる。本名は小島茂吉。通称は茂。1896年(明治29年)、叔父の養子となり小茂田姓になる。
17歳で上京。当時は川越町と東京市を結ぶ鉄路がなく、寄宿したのが松本楓湖の隣家であった。その縁もあって楓湖の「安雅堂画塾」に入門。なお、同日に、終生ライバル関係となる速水御舟も入門[注 1]。1913年(大正2年)、第13回巽画会展に出品、原富太郎に買い上げられ、以降、支援を受ける。翌年、今村紫紅が主宰する赤曜会に参加し、青樹と号する。
1915年(大正4年)の再興院展に「小泉夜雨」が初入選。その後、肺結核となり川越の実家で静養する。1918年(大正7年)、第5回再興院展で「菜園」が入選。1921年(大正10年)、第8回再興院展に洋画的な手法と細密表現の際立つ「出雲江角港」を出品し、横山大観らに推挙され日本美術院の同人となる。1929年(昭和4年)、杉立社を組織、また帝国美術学校(現武蔵野美術大学)教授に就任。1931年(昭和6年)、日本画が本来もつ装飾性に眼を向けた「虫魚画巻」を第18回院展で発表。
代表作
編集脚注
編集注釈
編集- ^ 御舟が午前の、青樹が午後の入門だった。
出典
編集- ^ 『小茂田青樹展 - 詩情の画家』 東武美術館編、日本経済新聞社、1993年。