尊真法親王
江戸時代後期の法親王。伏見宮貞建親王の四男。 一品・親王、准三宮。牛車、一乗院、青蓮院。天台座主210・212・215・217代。一身阿闍梨。施無畏王院
尊真法親王(尊眞法親王・そうしんほうしんのう、寛保4年1月19日(1744年3月3日) - 文政7年3月17日(1824年4月16日))は、江戸時代後期の法親王。伏見宮貞建親王の第四皇子で、母は家女房の岡本応子。幼名は雄香宮(おかのみや)[1]、後に喜久宮。諱は成輔。字は良璠[2]。正式な出家が親王宣下後であるため、入道親王とする表記もある[3]。
尊真法親王 | |
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続柄 | 伏見宮貞建親王第四皇子 |
全名 | 成輔 |
称号 | 雄香宮、喜久宮 |
身位 | 一品・親王、准三宮 |
出生 |
寛保4年1月19日(1744年3月3日) |
死去 |
文政7年3月17日(1824年4月16日)(享年81) |
父親 | 伏見宮貞建親王 |
母親 | 岡本応子 |
役職 |
青蓮院門跡 天台座主 |
生涯
編集延享3年(1747年)10月に桜町天皇と姉小路定子(開明門院)の養子になる。当初は一乗院に入る予定であったが、宝暦2年(1752年)になって勅命によって一乗院から連れ戻されて青蓮院を継承し、同年12月に親王宣下を受けた。翌宝暦3年(1753年)に出家、宝暦12年(1762年)に一身阿闍梨となる。
明和元年(1764年)に天台座主に補任され、以降4度にわたって座主を務める。また、同年には二品親王となる。天明5年(1785年)12月に一品親王に叙される。天明7年(1787年)に牛車宣旨を受ける。文化13年閏8月13日(1816年10月4日)に准三宮となる。文政5年(1822年)に老齢のために宮中で杖を用いることを許された。文政7年(1824年)に81歳で逝去。諡号は施無畏王院。墓地は善峯寺内にある青蓮院宮墓地。
書道に優れており、『入木道十七条之口決』・『入木抄口決』などの著作がある。