宝塔寺
京都府京都市伏見区深草にある日蓮宗の寺院
宝塔寺(ほうとうじ)は、京都市伏見区深草宝塔寺山町にある日蓮宗の寺院。山号は深草山。本尊は三宝尊。旧本山は、大本山妙顕寺。奠師法縁。
宝塔寺 | |
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本堂 | |
所在地 | 京都府京都市伏見区深草宝塔寺山町32 |
位置 | 北緯34度57分46.3秒 東経135度46分32.9秒 / 北緯34.962861度 東経135.775806度座標: 北緯34度57分46.3秒 東経135度46分32.9秒 / 北緯34.962861度 東経135.775806度 |
山号 | 深草山(じんそうざん) |
宗派 | 日蓮宗 |
本尊 | 三宝尊 |
創建年 | 嘉祥年間(848年 - 851年) |
開山 | 聖宝、改宗開山日像 |
開基 | 藤原基経 |
文化財 | 本堂、多宝塔、総門(重要文化財) |
法人番号 | 7130005002121 |
歴史
編集藤原基経が嘉祥年間(848年 - 851年)に発願した真言宗の極楽寺が宝塔寺の前身とされている。極楽寺は基経の没後、嫡子の藤原時平により昌泰2年(899年)に聖宝を開山として完成した。『源氏物語』「藤裏葉」帖に寺名が言及されている。
鎌倉時代末期、京都で布教にあたっていた日像は当時の極楽寺の住持・良桂と法論を行った。良桂は日像に徳治2年(1307年)に帰依し、真言宗寺院であった極楽寺は延慶年間(1308年 - 1311年)に日蓮宗に改宗し、寺名を鶴林院に改めた。
興国3年/康永元年(1342年)日像は妙顕寺で入寂、遺言により当寺において荼毘に付されて葬られた[1]。その後、寺名を宝塔寺に改めている。寺名は日像が京都の七口(京都に入る7つの街道の入口)に建立した題目石塔の1つを日像の廟所に祀ったことによる。
寺は応仁元年(1467年)の応仁の乱で多宝塔を残して全焼し、後に再建されたが、次いで天文法華の乱でまたも多宝塔を残して全焼した。その後、長らく再建されなかったが、天正18年(1590年)に8世日銀が伽藍を再建した[1]。
境内
編集- 本堂(重要文化財) - 慶長13年(1608年)再建。入母屋造、本瓦葺き。桁行七間、梁間五間。釈迦如来像、十界曼荼羅の他、日蓮と日像の像を安置する[2]。2003年(平成15年)に解体修理が行われた。
- 神輿庫
- 太鼓楼
- 昭宣堂 - 1941年(昭和16年)建立。前身寺院極楽寺の開祖・藤原基経(昭宣公)の宝篋印塔を安置する。
- 三十番神堂
- 日像上人廟 - 日像は興国3年/康永元年(1342年)に妙顕寺で入寂し、当寺に葬られた。題目笠塔婆を安置する。
- 日蓮聖人像
- 千仏堂 - 鬼子母神を祀る。伏見人形はここから発祥したという。
- 都々逸大明神 - 芸能守護の神。
- 七面堂 - 寛文6年(1666年)に勧請された七面天女を祀る。鎮守社。
- 常冨稲荷神社
- 熊鷹大明神
- 妙見堂
- 納骨堂
- 表門
- 客殿
- 庫裏
- 方丈
- 庭園
- 多宝塔(重要文化財) - 室町時代の永享11年(1439年)以前のもので、京都で一番古い多宝塔である。屋根は行基葺となっている。
- 中興廟 - 2世良桂、8世日銀を祀る。
- 藤原基経供養塔
- 臼田畏斎の所[3]
- 山本亡羊の墓
- 伊良子光顕の墓
- 伊良子光順の墓
- 下村家一族の墓 - 大丸の創業者一族。
- 三宅寄斎の墓
- 放生池
- 鐘楼
- 仁王門 - 宝永8年(1711年)再建。
- 総門(重要文化財) - 室町時代の建立。四脚門。
- 雲居の雁と夕霧の中将の像 - 源氏物語の登場人物。
- 伽藍石 - 極楽寺の礎石。
塔頭
編集文化財
編集重要文化財
編集- 本堂
- 多宝塔(寶塔寺塔婆)
- 総門(四脚門)
所在地
編集京都府京都市伏見区深草宝塔寺山町32
交通アクセス
編集周辺
編集脚注
編集参考文献
編集- 竹村俊則『昭和京都名所図会 6 洛南』、駸々堂、1986
- 佐和隆研・奈良本辰也・吉田光邦編『京都大事典』、淡交社、1984