孟子 (書物)
『孟子』(もうじ[1]、もうし、拼音: )は、儒教の思想家である孟子の逸話・問答の集成である。成立は紀元前4世紀後半・戦国時代まで遡る[2]。宋代以降は「四書」「十三経」に含められ儒教経典の一つとされる。
著者 | 孟子または萬章など |
---|---|
国 | 中国 |
言語 | 漢文 |
ジャンル | 中国哲学 |
孟子 | |||||||||||||||||||||||||||||||
中国語 | 孟子 | ||||||||||||||||||||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
文字通りの意味 | Master Meng | ||||||||||||||||||||||||||||||
|
儒家経典 | |
---|---|
五経 | 伝 |
九経 | |
易 書 詩 礼(儀礼/周礼) 春秋 |
礼記 春秋左氏伝 春秋公羊伝 春秋穀梁伝 |
七経 | 十二経 |
論語 孝経 |
爾雅 |
十三経 | |
孟子 |
著者
編集中国の歴史を通して、『孟子』の著者が誰であるかについて複数の見解があった。司馬遷は、『孟子』は孟子が自らの弟子である公孫丑・萬章とともに書き上げたものであるとしている。一方、朱熹・趙岐・焦循らは、孟子が自分一人で書き上げたとしている。韓愈・孫奭・晁公武らは、孟子の死後公孫丑と萬章が自身の記録や記憶を基にして『孟子』を著したとしている。
注釈
編集注釈は複数存在するが、趙岐・朱熹による注釈が最も権威がある。趙岐の『孟子注』は『十三経注疏』に含まれ「古注」と称されるのに対し、朱熹の『孟子集注』は「新注」と称される。他にも、焦循の『孟子正義』、和書では伊藤仁斎の『孟子古義』などが知られている。
評価・受容
編集『孟子』は元々経書としての地位を与えられていなかった。『漢書』芸文志では『孟子』は経書ではなく諸子百家のうちの儒家者流に含められ、漢代においては『荀子』と比しても評価が低かった。漢文帝は『論語』・『孝経』・『爾雅』とともに『孟子』を「伝記」の一つとして博士を置いたが、後に除いた[3]。
唐代に入ると韓愈や柳宗元の功績により評価が高まった。五代十国時代の後蜀の皇帝である孟昶(もうちょう)は、石経に『孟子』を含めた。これはおそらく『孟子』を真の経書の範疇に含めた最初の例である。
北宋では王安石が『孟子』を科挙の科目に加えたが、これに反発して司馬光の『疑孟』も作成された。南宋の孝宗の統治時代、朱子学の祖である朱熹により四書(『論語』・『孟子』・『中庸』・『大学』)に列せられ、以来重視される。明・清に至るまで、『孟子』は科挙試験の題材であった。
清の第5代皇帝である雍正帝は、華夷思想により満州人の支配を良しとせず明の復活を唱える思想家に対しては自ら論破し、討論の経緯を『大義覚迷録』という書物にまとめ、『孟子』にある「舜は諸馮に生まれて負夏に移り、鳴條で亡くなった東夷の人である。文王は岐周に生まれ、畢郢に死した西夷の人だ。距離の離れること千余里、時代にして後れること千年あまりだが、志を立てて中国で実行したことは割り符を合わせたように一致している。先の聖人も後の聖人も、みな軌を一にしているのである[4][5]」という孟子の言葉をなぞりつつ[6]、「本朝が満州の出であるのは、中国人に原籍があるようなものだ。舜は東夷の人だったし、文王は西夷の人だったが、その聖徳は何ら損なわれてはいない」「徳のあるものだけが天下の君になれるのだ」と強調している[6]。
夷狄の名は、本朝は諱むところではない。孟子は、「舜は東夷の人であり、文王は西夷の人である」と言っている。もとの生まれたところは、なお今人の籍貫のようなものである。いわんや満州人はみな漢人の列に附することを恥じている。ジュンガル部は満州人を蛮子と呼び、満州人はこれを聞いて、憤り恨まないものはなかった。それなのに逆賊(の曽静)が夷狄であることを罪としたことは、まことに(『程子語録』にいう)酔生夢死(何も爲すことなく無自覚に一生を送る)禽獣である。 — 大義覚迷録[7]
日本における『孟子』
編集江戸時代以前
編集日本にも『孟子』は持ち込まれたが、「易姓革命」の概念が受け入れられず、あまり流布しなかったと言われている。これは、移り変わっていく中国の政権と異なり、日本の皇室は政治体制の変動にもかかわらず(形式だけでも)頂点にあり続けたために、矛盾が発生してしまうためであると考えられる。また、明経道を家学とした公家の清原氏では、易姓革命の部分の講義は行わない例があったとされている。俗に「『孟子』を乗せた船は、日本に着く前に沈没する」とも言われていたと伝わる(「孟子舶載船覆溺説」)。明の謝肇淛(しゃ ちょうせつ)の『五雑組(ござっそ)』には「倭奴(日本人の事)もまた儒書を重んじ仏法を信ず。凡そ中国の経書は皆重価を以てこれを
しかし、宇多天皇の寛平3年(891年)に藤原佐世の著した『日本国見在書目録』には既に『孟子趙岐注』14巻などがあったと記録されている。おそらく上記の伝説は危険に満ちた航海者の畏怖の念から出てきたものと思われる。そもそも、『孟子』が中国において儒教の経典としての地位が認められた時代(北宋後期~南宋前期)には、遣唐使が既に廃止されて日中間の学術的交流は大幅に縮小されており、日本における儒教は遣唐使廃止以前の唐代儒教の延長線上にあった。そのため、日本の大学寮明経道の教科書には『孟子』は含まれておらず、鎌倉時代以前の日本では『孟子』はほとんど知られていなかった可能性は高い。儒教の経典としての『孟子』の伝来は鎌倉時代に宋学の一部としてのものであったと考えられている。鎌倉末期に花園上皇が皇太子量仁親王(後の光厳天皇)に宛てた『誡太子書』には『孟子』の革命説が引用されており、『徒然草』や『太平記』にも『孟子』の知識が垣間見られるなど、既に支配層や知識人の間では『孟子』は広く知られていた。なお、後醍醐天皇や足利義満が『孟子』をはじめとする四書を講習していたことを後醍醐天皇の倒幕計画や義満の皇位簒奪計画と結びつける説が行われるが、鎌倉時代末期から南北朝時代を通じて『孟子』を含めた四書を学ぶことは、天皇をはじめ公家社会の流行となっており、後醍醐天皇や義満もその流行の中にあった。『孟子』に記された性善説や仁義説などは宋学の伝来以後早い段階より日本の知識人の間で受容されており、『孟子』の一部分に過ぎない易姓革命と結びつけて、そこから特定の意図を読みとれるものではないという主張もある[8]。
江戸時代
編集江戸時代には朱子学が官学とされたことによって、朱子学にて四書の一である『孟子』は、儒学研究家のみならず、武士階級にとって必読の倫理書に格上げされた。『孟子』が日本人に爆発的に普及するようになったのは、江戸時代からである。後世に朱子学批判に回った伊藤仁斎や荻生徂徠らも、当然のごとく『孟子』を熟読するところから研究生活を始めたのである。
伊藤仁斎は、朱子学を批判して、『論語』『孟子』の古い意義すなわち古義をもって読むべきことを主張し、「古義学」を提唱した。彼は、自己の学の入門的著作『童子問』において、「天下の理は、論語・孟子の二書に尽きている。さらに加える内容などないのである。疑ってはいけない。」と激賞した[9]。彼は『孟子』の書を『論語』の意義に達するための津筏(しんばつ。わたしぶね)であると評して、『論語』の解説書として必ず熟読しなければならない、と説いた[10]。
一方、後進の儒学者で仁斎の学説を批判した荻生徂徠は、著書『弁道』において、「思・孟ハ外人ト爭(争)フ者ナリ」と評した。この語の意味は、子思およびそれを継いだ孟子は、外人すなわち論敵と争うための言葉を費やした者たちであるということである。両名が道家・墨家ほかの同時代の論客に対して論争したのは、諸子百家が相並び立つ時代の要請でやむをえなかった。徂徠は、論争して孔子の後を守った点については、両名の功績を評価した。しかし、徂徠は孔子の伝えた「先王の道」とは「礼楽刑政」、すなわち単純に言い尽くすことができない中国古代の伝統文化総体の継承を意味していたにもかかわらず、思・孟の両名は論争によって理論を重視した結果として、「先王の道」を単なる一学説である「儒家者流」に卑小化させた、と断じた。自説を遊説と論争の場で単純化・明確化した孟子は、徂徠によって、後世の者に孔子の伝えた「先王の道」を見誤らせるきっかけを作った一人として、批判された。
幕末の志士吉田松陰もまた、『孟子』の愛読者であった。彼の『孟子』講義書が、『講孟箚記(こうもうさっき)』である。この講義書には、孟子の言葉に応じて長州藩と日本を憂い、また当時の西洋列強の侵略にいかに対すべきかを思う憂憤が、よく表れている。ただし松蔭は、孟子の展開する「易姓革命論」を、日本の万世一系の国体に合わないとして否定した。
なお赤穂浪士のひとり、武林隆重は孟子の子孫であると伝わる。豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に明の従軍医であった孟二寛が日本に連行され、武林氏を名乗ったものである。
新出文献との関係
編集構成
編集- 梁惠王上
- 梁惠王下
- 公孫丑上
- 公孫丑下
- 滕文公上
- 滕文公下
- 離婁上
- 離婁下
- 萬章上
- 萬章下
- 告子上
- 告子下
- 盡心上
- 盡心下
現代語訳
編集日本語版
編集- 『漢文大系 第1巻 孟子定本 ほか』服部宇之吉校訂、冨山房、新装普及版1984年
- 『世界聖典全集 四書集註』宇野哲人校訂、改造社(上下)、1930年
- 『孟子 新釈漢文大系4』内野熊一郎、明治書院、1962年。度々再版
- 『中国古典選 孟子』 金谷治、朝日新聞社、新訂版1966年。朝日文庫(上下)、1978年
- 『孟子』 小林勝人、岩波文庫(上下)、1968-72年、ワイド版1994年
- 『大学・中庸[11]・孟子 世界古典文学全集18』 日原利国・湯浅幸孫・加地伸行、筑摩書房、1971年。度々再版
- 『孟子』 渡邊卓、明徳出版社〈中国古典新書〉、1971年、新版2012年。抜粋版
- 『孟子 全釈漢文大系2』 宇野精一、集英社、1973年
- 新版『孟子 全訳注』 宇野精一、講談社学術文庫、2019年。弟子が改訂
- 『新訳 孟子』 穂積重遠、講談社学術文庫、1980年。初刊は1948年
- 『中国の古典4 孟子』 大島晃、学習研究社、1983年、新版1993年
- 「全訳全注『孟子』朱子注 第一~第四巻」 今倉 章訳注、株式会社希望、2022-2023年
英語版ほか
編集- レッグ, ジェームズ (1895) [1861]. The works of Mencius. 中国の古典. II (2 ed.). オックスフォード: クラレンドン出版 1990年にドーヴァー出版で再出版された。 (ISBN 978-0-486-26375-5).
- クヴルール, セラファン (1895) (フランス語). 孟子の作品 [孟子の作品]. 四書. 河間府: ミッションカソリック
- ヴィルヘルム, リヒャルト (1916) (ドイツ語). 孟子. イェーナ: オイゲン・ディーデリヒス社
- ライオール, ロナルド A. (1932). 孟子. ロンドン: Longmans, Green and Co.
- ウェア, ジェームス R. (1960). 孟子の言葉. New York: メントール出版社
- ドブソン, W. A. C. H. (1963). 孟子,一般向けの新たな翻訳. ロンドン: オックスフォード大学出版
- ラウ, D. C. (1970). 孟子. ロンドン: ペンギン出版. ISBN 978-0140449716
- ヴァンノーデン, ブライアン (2008). 孟子:伝統的な注釈付. インディアナポリス: ハケット出版社. ISBN 978-0872209138
- ブルーム, アイリーン (2009). 孟子. ニューヨーク: コロンビア大学出版. ISBN 978-0231122047
解説書
編集脚注・出典
編集- ^ 人物としての孟子は一般に「もうし」と読むが、書物としての『孟子』は「もうじ」と読む。なお、「もうし」の慣用読みも一般化しつつある。
- ^ Magill, Frank N. Magill and John Roth (1991). Masterpieces of World Philosophy. HarperCollins. p. 93. ISBN 0-06-270051-0
- ^ 趙岐『孟子題辞』による
- ^ 孟子曰:「舜生於諸馮,遷於負夏,卒於鳴條,東夷之人也。文王生於岐周,卒於畢郢,西夷之人也。地之相去也,千有餘里;世之相後也,千有餘歲。得志行乎中國,若合符節。先聖後聖,其揆一也。」 — 孟子、離婁下
- ^ 杉山清彦. “第8回 「中華」の世界観と「正統」の歴史” (PDF). 「正統」の歴史と「王統」の歴史 (東京大学教養学部): p. 6. オリジナルの2016年9月10日時点におけるアーカイブ。
- ^ a b 王徳威 (2020年3月16日). “基調講演記録 華夷の変 ―華語語系研究の新しいビジョン―”. 愛知大学国際問題研究所紀要 = JOURNAL OF INTERNATIONAL AFFAIRS (155) (愛知大学国際問題研究所): p. 10-11
- ^ 韓東育 (2018年9月). “清朝の「非漢民族世界」における「大中華」の表現 : 『大義覚迷録』から『清帝遜位詔書』まで”. 北東アジア研究 = Shimane journal of North East Asian research (別冊4) (島根県立大学北東アジア地域研究センター): p. 17
- ^ 小川剛生「南北朝期の『孟子』の受容の一様相-二条良基とその周辺から」(『国文学研究資料館紀要』28号(2002年2月)、所収:『二条良基研究』(笠間書院、2005年) ISBN 978-4-305-10362-8 第四篇第三章第二節「孟子の受容」)
- ^ 『童子問』第三章、「天下ノ理、語孟二書二到リテ盡ク。復(また)加ウベキコト無シ。疑フ勿カレ。」
- ^ 同第七章「學者孟子ヲ熟讀セズンバ、必ズ論語ノ羲ニ達スルコト能ハズ。蓋シ論語ノ津筏ナリ。」
- ^ 「大学・中庸」は金谷治訳注
関連項目
編集外部リンク
編集- The Works of Mencius: Legge's English translation
- Mengzi Chinese text with Legge's English translation
- Mencius (Selections), translated by A. Charles Muller