奥平貞昌

戦国時代初期の三河国の国人領主。久保城の初代城主。奥平貞久の子。奥平氏4代。子に奥平次郎左衛門(鳥川家の祖)、松平康定の妻

奥平 貞昌(おくだいら さだまさ、宝徳3年(1451年)? - 天文4年4月20日1535年5月31日)?)は、戦国時代初期の三河国国人領主。久保城の初代城主。奥平貞久の子。奥平貞勝の父。入道後は「道閑」と号した。

生涯

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今川氏に仕えて三河国東部に勢力を伸ばした。永正2年(1505年)、今川氏親により遠江国浜松荘(現在の静岡県浜松市付近)の一部を所領として宛がわれた。

永正11年(1514年[1]、今川氏親の遠州曳馬城攻めに呼応し、同国の井伊谷に在る御嶽城(三岳城)を攻め落とした。以後、この城番を務める。この頃の奥平氏戸田氏とともに今川氏の傘下として松平氏牧野氏と争っていた。

ところが、松平清康が東三河平定に乗り出す享禄年間(1528年 - 1532年)には清康に従い、八名郡宇利城攻略戦に従軍した。

最期

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寛政重修諸家譜』では天文4年4月20日(1535年5月31日)に遠江国御嶽城において、85歳で病死したと言われている。ところが、奥平氏の三河時代の菩提寺であった広祥院の記録(広祥院記)には、享禄年間中に三州額田郡の宮崎城へ移って隠居、ここで死去したとあり、判然としない。

なお、嫡子・貞勝は60歳を過ぎてからの子と言われるが、その後も3人の男子、2人の女子に恵まれている点で、生年さえ疑われることがある。

脚注

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  1. ^ 永正10年(1513年)説もある(大石泰史「今川氏と奥平氏-〈松平奥平家古文書写〉の検討を通じて」」(初出:『地方史静岡』21号(静岡県立中央図書館、1993年)/所収:大石泰史 編『シリーズ・中世関東武士の研究 第二七巻 今川義元』(戎光祥出版、2019年6月) ISBN 978-4-86403-325-1) 2019年、P160.)。