天啓帝
天啓帝(てんけいてい)は、明の第16代皇帝。諱は由校(ゆうこう)。廟号は熹宗(きそう)。日本では在位中の元号である天啓を取って天啓帝と呼ぶのが一般的である。
天啓帝 朱由校 | |
---|---|
明 | |
第16代皇帝 | |
明熹宗著袞龍袍像(国立故宮博物院蔵) | |
王朝 | 明 |
在位期間 |
泰昌元年9月6日 - 天啓7年8月21日 (1620年10月1日 - 1627年9月30日) |
都城 | 北京 |
姓・諱 | 朱由校 |
諡号 | 達天闡道敦孝篤友章文襄武靖穆荘勤悊皇帝 |
廟号 | 熹宗 |
生年 |
万暦33年11月14日 (1605年12月23日) |
没年 |
天啓7年8月21日 (1627年9月30日) |
父 | 泰昌帝 |
母 | 孝和太后王氏 |
后妃 | 懿安皇后張氏 |
陵墓 | 徳陵 |
年号 | 天啓:1621年 - 1627年 |
生涯
編集第15代皇帝泰昌帝の長男として生まれる。1620年(万暦48年・泰昌元年)、即位して間もない父帝が崩御(暗殺と見られる)したために即位した。
天啓帝の7年の治世はそのまま宦官魏忠賢と乳母客氏に因る専横と暴政の時代である。そのせいか、天啓帝は政務の傍ら、大工仕事をするようになった[1]。
魏忠賢は東林党を弾圧することで政界の表舞台に躍り出た。現実の政治に合わない理想論を掲げ実務を担う閣僚たちを攻撃する東林党に対する憎しみは強く、当初は魏忠賢による弾圧を喝采したが、のちに閣僚たちは大きく後悔することになった。魏忠賢の弾圧は、東林党に限らなかったのである[2][3]。
魏忠賢は権勢を完全に掌握しただけでは飽き足らず、堯天舜徳至聖至神(ぎょうてんしゅんとくしせいししん、堯や舜に匹敵する聖人であると自らを称えさせた)という称号を名乗り、全国に自分の祠を立てさせた[4]。最後には自分の息のかかった者に「魏忠賢の功績は多大であるから、孔子と並んで称えるべきだ」と進言させた。そして反対する者は全て殺害した。
この時期には、国内では悪政に堪えかねた農民蜂起が度々起こり、国外では満洲のヌルハチが後金を建て勢力を拡大していたが、この皇帝と朝廷を全く私物化し腐敗を究める魏忠賢は、たとえ後金相手に負けたとしても賄賂を贈られれば不問に付した。そのためにヌルハチの勢力は抑えられないものになっていった。
天啓7年(1627年)、次代に多大な負担を被せて崩御した。享年23。皇后や妃嬪が妊娠する度に魏忠賢と乳母の客氏が堕胎若しくは殺害し、産まれた男子も皆死亡していたため、弟の信王朱由検(崇禎帝)が帝位を継いだ。
宗室
編集后妃
編集男子
編集- 懐沖太子[5] 朱慈燃 - 水子。母は懿安皇后張氏。
- 悼懐太子[5] 朱慈焴 - 夭折。母は皇貴妃范氏。
- 献懐太子[5] 朱慈炅(1624-1626) - 王恭廠大爆発の際に驚死[6]。母は皇貴妃任氏。
女子
編集参考文献
編集脚注
編集- ^ 池北偶談 巻二 明熹宗の項 (中国語), 池北偶談/卷二#◎4明熹宗, ウィキソースより閲覧。
- ^ 巻十四 客魏始末紀略 (中国語), 酌中志#卷十四, ウィキソースより閲覧。
- ^ 巻二百四十四 列傳第一百三十二 楊漣の項 (中国語), 明史/卷244#楊漣, ウィキソースより閲覧。
- ^ 建生祠 (中国語), 明季北略/卷02#建生祠, ウィキソースより閲覧。
- ^ a b c 巻120 熹宗三子の項 (中国語), 明史/卷120#熹宗三子, ウィキソースより閲覧。
- ^ 巻三 恭紀先帝誕生第三、訖至天啓六年五月の項 (中国語), 酌中志#卷三, ウィキソースより閲覧。
- ^ 『国榷』巻首之一 元潢
- ^ 『皇明懐寧公主墓志銘』
登場作品
編集- 映画
- ドラマ