千田 軍之助(せんだ ぐんのすけ、安政3年2月11日1856年3月17日) – 大正3年(1914年3月2日[1])は、衆議院議員自由党憲政党立憲政友会)、ジャーナリスト

千田軍之助

経歴

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紀伊国那賀郡南志野村(現在の和歌山県紀の川市)の郷士の家に生まれた。1874年明治7年)、副戸長となり、第三大区第二小区会議所に勤務した。1876年(明治9年)、地租改正にあたって県令神山郡廉に地価の不当を訴えたが、容れられなかったため副戸長を辞した。その後、児玉庄右衛門(児玉仲児の父)らとともに自由民権運動を展開したため、投獄された。これに対し数百の民衆が彼らを奪還しようと蜂起したため、神山は大阪鎮台に出兵を乞う事態となった(粉河騒動)。この際に取調べ時の態度に感じ入った神山は、千田を釈放した翌日に県の学務課長に抜擢した。1878年(明治11年)に辞職したが、1884年(明治17年)に官房主事として起用された。1886年(明治19年)に官を辞して、同志会という政社を結成し、後には板垣退助の自由党に参加した。この頃、陸奥宗光が欧化主義を唱えると、和歌山に「紀陽新聞」を発刊して主筆として反対の論陣を張った。

1894年(明治27年)、第3回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。通算で4期務めた。その間、1899年(明治32年)に政府が地租を2.5%から4%に引き上げる増税案を提出すると反対派の中心となり、引き揚げ幅を3.3%に抑えさせた。また1909年(明治42年)に政府が非常特別税の恒久化を図ると、民力休養を唱えて反対し、税率を5.5%から4.7%に引き下げさせた。また穀物輸入税率案を提出して農業保護を図った。

脚注

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  1. ^ 衆議院事務局『第一回乃至第十九回総選挙 衆議院議員略歴』、1936年

参考文献

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  • 『和歌山県那賀郡誌 下巻』和歌山県那賀郡、1923年。