勝川春亭

1770-1820/1824, 江戸時代後期の浮世絵師。勝川春英の門人。本姓は山口、名は長十郎。号は松高斎、汲壷、戯墨庵、耕煙山樵、宮山人。

勝川 春亭(かつかわ しゅんてい、生年不明 - 文政7年11月9日1824年12月28日[1])とは、江戸時代後期の浮世絵師

足利直義」 春亭画。大英博物館所蔵。

来歴

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勝川春英の門人。勝川春扇と並んで春英門下の双璧とされる。本姓は山口(または中川とも)、名は長十郎。勝川を称し、松高斎、汲壷、戯墨庵、耕煙山樵、宮山人と号す。江戸馬喰町、のちに神田和泉町に住む。寛政から文政の頃にかけて武者絵役者絵美人画名所絵など多くの錦絵を描いたが、それよりはるかに多くの量の読本、黄表紙草双紙合巻の挿絵も描いている。

春亭の錦絵で最も多いのは武者絵である。武者絵ではまだ珍しかった2枚続・3枚続の形式を活かした力作を残し、次代の歌川国芳の登場を準備した。他の代表作として烏亭焉馬の『花江都歌舞妓年代記』五編20冊の挿絵、洋画風の「深川新地之図」や「近江八景」といった風景画などがよく知られている。肉筆画もあるが数は少ない。春亭の美人画は他派の浮世絵師の影響が強く見られ、文化の頃になると初代歌川豊国の作風が窺え、時代が下って文政初めの作とされる「遊女立姿図」は猪首、短躰のプロポーションとなるなど、豊国晩年の画風に通じている。なお色紙判の摺物「しころ引図」に「長谷川久蔵筆応需勝汲壺春亭画」の署名と花押があり、上方との関わりが指摘されている。

春亭の墓所は、勝川家に伝わる過去帳には浅草菊谷橋(現在の元浅草四丁目)の日蓮宗本立寺と記されているが、本立寺は明治になって退転したと見られ現存しない[2]。法名は春光理貞信士。

作品

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脚注

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  1. ^ 勝川家に伝わる過去帳の記載より。没年については文政2年(1819年)(原比露志 『浮世絵志墓所志』)、またはその翌年の文政3年8月3日、享年51(関根只誠 『名人忌辰録』 1894年。井上和雄 『浮世絵師伝』 1931年)ともいわれているが、これらの典拠は不明で文政3年以降に版行された作があることから、勝川家過去帳のほうが信憑性が高い。岩切友里子「勝川春亭考」参照。
  2. ^ 『原色浮世絵大百科事典』第2巻は墓所を台東区蔵前の正覚寺(榧寺)とするが(57頁)、正覚寺においても春亭の墓は現存せず、あるのは二代目春亭三代目春亭の墓である(佐野國夫「勝川家代々とその親族 ―勝川桂子氏書簡と同家蔵日拝帳より―」)。

参考文献

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  • 日本浮世絵協会編 『原色浮世絵大百科事典』(第2巻) 大修館書店、1982年 ※57頁
  • 岩切友里子「勝川春亭考」『浮世絵芸術』第120巻、国際浮世絵学会、1996年、3-30頁、doi:10.34542/ukiyoeart.1091ISSN 0041-5979NAID 130007987559 
  • 岩切友里子「勝川春亭考(続)」『浮世絵芸術』第121巻、国際浮世絵学会、1996年、24-28頁、doi:10.34542/ukiyoeart.1101ISSN 0041-5979NAID 130007988312 
  • 佐野國夫「勝川春亭代々とその親族-勝川桂子氏書簡と同家蔵日拝帳より-」『浮世絵芸術』第122巻、国際浮世絵学会、1997年、12-17頁、doi:10.34542/ukiyoeart.1109ISSN 0041-5979NAID 130007988300 
  • 東京国立博物館編集・発行 『東京国立博物館所蔵 肉筆浮世絵』 1993年、pp.110-111

関連項目

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