八田宗綱

宇都宮氏2代当主

八田 宗綱(はった むねつな)は、平安時代後期の人物。父は藤原兼仲、母は益子正隆の女。養父に藤原宗円宇都宮氏2代当主。

 
八田宗綱
時代 平安時代末期
生誕 応徳3年(1086年
死没 平治元年(1159年8月20日[1]または応保2年8月20日1162年9月30日
別名 宇都宮宗綱、中原宗綱
氏族 藤原氏八田氏
父母 実父:藤原兼仲(異説あり)、母:益子正隆
養父:藤原宗円(異説あり)     
兄弟 宗綱中原宗房(異説あり)
平棟幹
宇都宮朝綱八田知家(異説あり)、寒河尼
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生涯

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八田権守(はったごんのかみ)を称した。宇都宮宗綱中原宗綱とも呼ばれる。藤原兼房の子兼仲の子[2]で、母が身篭って間もなく、兼仲が応徳2年(1085年)に没すると、母は、その弟(または兄)である宗円の妻となり、生まれた宗綱が、その家督を継ぐ。一説に中原宗家の子とする説もあるものの、宗家の方が宗綱より後の時代(12世紀後半)の人物であるため成立しない(ただし、宗綱の弟される宗房は中原氏を称しており、中原氏と宇都宮氏が何らかの親族関係にあった可能性は高い)[3]。また、宗綱は八田(常陸国、現在の茨城県下館市八田)を政治基盤としていたといわれる。これは、宗綱自身が八田を称していたことはもとより、諸氏系図で父・宗円が益子の豪族である益子正隆の娘を室としていることや、宗綱自身が常陸国大掾の平棟幹(大掾棟幹)の娘を室としていること、小田氏始祖となる次男の知家も八田を号されていること、嫡男の朝綱の母が八田局と号されていることなどが背景にある。この場合、宗円と宗綱は八田の政治基盤を背景に、真岡芳賀氏を傘下に加えながら毛野川(鬼怒川・田川)沿いに宇都宮に入り、宇都宮氏の基盤を整えたとされる。

応保2年(1162年)8月20日、77歳で没する。

娘の寒河尼源頼朝の乳母を務め、小山政光の後妻となって結城氏の祖となる朝光を生んでいる。

脚注

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  1. ^ 宇都宮系図別本
  2. ^ 「明応古縁起」「輪王寺 常行堂大過去帳」など
  3. ^ 野口実「下野宇都宮氏の成立とその平家政権下における存在形態」『東国武士と京都』(同成社、2015年)P193-194.

関連項目

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