井口省吾
日本の陸軍軍人
井口 省吾(いぐち しょうご、安政2年8月10日(1855年9月20日) - 大正14年(1925年)3月4日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将 従二位 勲一等 功二級。日清戦争、日露戦争期を代表する軍人の一人である。駿河国出身。
井口 省吾 | |
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生誕 |
1855年9月20日 駿河国駿東郡上石田村 |
死没 |
1925年3月4日(69歳没) 静岡県駿東郡長泉村下土狩 |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1877 - 1920 |
最終階級 | 陸軍大将 |
経歴
編集歩兵第九聯隊大津分営に兵卒として入営し、翌年、陸軍士官学校を受験している。
陸軍士官学校(旧2期)、陸軍大学校(1期)を経て1887年ドイツ留学[1]。日露戦争時には満州軍総司令部参謀となり、奉天会戦などの作戦指揮にあたった。児玉源太郎は口癖のように、「俺には普賢菩薩と文殊菩薩がついている。」と井口と松川敏胤の両名を頼りにしていたという。またドイツ留学の経験を生かし、いろいろな訳書を行った。明治39年(1906年)に功二級金鵄勲章、大正3年(1914年)に勲一等瑞宝章を受章している。反長州閥として知られ、東條英教(東條英機の父)とは親友であった。
年表
編集- 安政2年(1855年)8月10日 生まれる。
- 明治8年(1875年)12月 陸軍士官学校入校。
- 明治10年(1877年)
- 4月 士官見習・征討軍団附。
- 5月 歩兵第11連隊附。
- 11月 陸軍士官学校帰校。
- 明治11年(1878年)12月 陸軍士官学校卒業(旧2期)。
- 明治12年(1879年)2月1日 陸軍砲兵少尉・近衛砲兵連隊附。
- 明治13年(1880年)12月 大阪鎮台山砲第4大隊附。
- 明治15年(1882年)4月 砲兵中尉・参謀本部管東局員。
- 明治17年(1884年)2月 陸軍大学校入校。
- 明治18年(1885年)5月 砲兵大尉。陸軍大学校卒業(1期)。
- 明治20年(1887年)5月 ドイツ留学。
- 明治23年(1890年)12月 参謀本部第1局員。
- 明治24年(1891年)
- 4月 陸軍大学校教官。
- 11月 陸軍砲兵少佐。
- 明治26年(1893年)11月 野砲兵第4聯隊大隊長。
- 明治27年(1894年)
- 明治28年(1895年)
- 3月 砲兵中佐。
- 6月 参謀本部第1局員。
- 9月 陸軍大学校教官。
- 明治29年(1896年)5月 参謀本部2部員。
- 明治30年(1897年)
- 明治34年(1901年)
- 明治35年(1902年)
- 明治37年(1904年)6月 満州軍参謀(兵站担当)。
- 明治39年(1906年)2月6日 陸軍大学校長。
- 明治42年(1909年)8月 陸軍中将。
- 大正元年(1912年)11月27日 第15師団長。
- 大正4年(1915年)1月25日 朝鮮駐剳軍司令官
- 大正5年(1916年)
- 大正9年(1920年)8月10日 後備役。
- 大正14年(1925年)3月4日 薨去。
栄典・授章・授賞
編集- 位階
- 1880年(明治13年)2月28日 - 正八位
- 1882年(明治15年)6月1日 - 従七位
- 1885年(明治18年)7月25日 - 正七位
- 1891年(明治24年)12月28日 - 従六位[2]
- 1895年(明治28年)7月15日 - 正六位[3]
- 1897年(明治30年)10月30日 - 従五位[4]
- 1902年(明治35年)9月20日 - 正五位[5]
- 1907年(明治40年)10月11日 - 従四位[6]
- 1912年(大正元年)11月20日 - 正四位[7]
- 1915年(大正4年)12月20日 - 従三位[8]
- 1919年(大正8年)1月10日 - 正三位[9]
- 1920年(大正9年)9月20日 - 従二位[10]
- 勲章等
- 1892年(明治25年)5月28日 - 勲六等瑞宝章[11]
- 1895年(明治28年)
- 1896年(明治29年)11月25日 - 勲五等瑞宝章[14]
- 1902年(明治35年)11月29日 - 勲四等瑞宝章[15]
- 1905年(明治38年)5月30日 - 勲三等瑞宝章[16]
- 1906年(明治39年)4月1日 - 功二級金鵄勲章・勲二等旭日重光章・明治三十七八年従軍記章[17]
- 1914年(大正3年)5月16日 - 勲一等瑞宝章[18]
- 1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章[19]
- 1919年(大正8年)2月27日 - 旭日大綬章[20]
- 1920年(大正9年)11月1日 - 金杯一組・大正三年乃至九年戦役従軍記章[21]
著作
編集翻訳
編集共纂
編集- 東條英教・井口省吾・山口圭蔵共纂 編『帥兵規例 参謀演習旅行預教』陸軍大学校〈陸軍大学校読本〉、1887年3月。 NCID BN14846318。
校閲
編集- ブルーメ 著、辻本貫一 訳『戦略論』 巻之上、陸軍大学校〈陸軍大学校読本〉、1892年。 NCID BB28698349。全国書誌番号:41022033。
- ブルーメ 著、辻本貫一 訳『戦略論』博愛館書店、1897年4月。 NCID BB04506680。
日記
編集- 「井口省吾日記」刊行会編 編『井口省吾日記』 第1巻、講談社エディトリアル、2018年2月。ISBN 9784866770017。 NCID BB25937578。全国書誌番号:23029980。
- 「井口省吾日記」刊行会編 編『井口省吾日記』 第2巻、講談社エディトリアル、2018年2月。ISBN 9784866770024。 NCID BB25937625。全国書誌番号:23029983。
- 「井口省吾日記」刊行会編 編『井口省吾日記』 第3巻、講談社エディトリアル、2018年2月。ISBN 9784866770031。 NCID BB25937738。全国書誌番号:23029984。
- 「井口省吾日記」刊行会編 編『井口省吾日記』 第4巻、講談社エディトリアル、2018年2月。ISBN 9784866770048。 NCID BB25937807。全国書誌番号:23029985。
- 「井口省吾日記」刊行会編 編『井口省吾日記』 第5巻、講談社エディトリアル、2018年2月。ISBN 9784866770055。 NCID BB25937873。全国書誌番号:23029986。
脚注
編集- ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 81頁。
- ^ 『官報』第2551号「叙任及辞令」1892年1月4日。
- ^ 『官報』第3613号「叙任及辞令」1895年7月16日。
- ^ 『官報』第4302号「叙任及辞令」1897年11月1日。
- ^ 『官報』第5767号「叙任及辞令」1902年9月22日。
- ^ 『官報』第7288号「叙任及辞令」1907年10月12日。
- ^ 『官報』第94号「叙任及辞令」1912年11月21日。
- ^ 『官報』第1017号「叙任及辞令」1915年12月21日。
- ^ 『官報』第1930号「叙任及辞令」1919年1月11日。
- ^ 『官報』第2442号「叙任及辞令」1920年9月21日。
- ^ 『官報』第2680号「叙任及辞令」1892年6月6日。
- ^ 『官報』第3671号「叙任及辞令」1895年9月21日。
- ^ 『官報』第3824号・付録「辞令」1896年4月1日。
- ^ 『官報』第4027号「叙任及辞令」1896年11月30日。
- ^ 『官報』第5824号「叙任及辞令」1902年12月1日。
- ^ 『官報』第6573号「叙任及辞令」1905年5月31日。
- ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1906年12月30日。
- ^ 『官報』第539号「叙任及辞令」1914年5月18日。
- ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
- ^ 『官報』第1970号「叙任及辞令」1919年2月28日。
- ^ 『官報』第2612号「叙任及辞令」1921年4月19日。
参考文献
編集- 井口省吾文書研究会 編『日露戦争と井口省吾』原書房〈明治百年史叢書 第431巻〉、1994年10月。ISBN 9784562026227。
- 波多野勝 編『井口省吾伝』現代史料出版、2002年2月。ISBN 9784877850982。
関連項目
編集外部リンク
編集先代 内山小二郎 |
第15師団長 第5代:1912年11月27日 - 1915年1月25日 |
次代 由比光衛 |
先代 安東貞美 |
朝鮮駐剳軍司令官 第4代:1915年1月25日 - 1916年8月18日 |
次代 秋山好古 |