三浦守治
三浦 守治(みうら もりはる、安政4年4月30日〈ユリウス暦:1857年5月11日〉- 大正5年〈1916年〉2月2日)は明治・大正期の病理学者。帝国大学医科大学の初代病理学教授、帝国学士院会員などをつとめた。東京帝国大学名誉教授、従二位勲二等瑞宝章受章。
三浦守治 | |
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帝国大学初代病理学教授 三浦守治 | |
生誕 |
安政4年4月30日(1857年5月11日) 磐城国田村郡御木沢村 |
死没 |
1916年2月2日(58歳没) 東京府 |
国籍 | 日本 |
研究分野 | 病理学 |
研究機関 |
帝国大学医科大学 ライプツィヒ大学 ベルリン大学 |
出身校 | 東京医学校 |
主な業績 | 帝国大学医科大学病理学教室の設立に寄与 |
主な受賞歴 | 従二位勲二等瑞宝章(1916年) |
プロジェクト:人物伝 |
経歴
編集磐城国田村郡御木沢村(現福島県田村郡三春町)に、三春藩士・村田七郎兵衛の次男として生まれ、幼いとき三浦義純の養子となった。
明治2年(1869年)藩校の講文堂に入る。寄宿舎の同期に加藤木重教がいる[1]。明治5年(1872年)東京に出て岡千仭の門に入り漢学を修めた。明治6年(1873年)大学東校に入り、明治14年(1881年)東京大学医学部を首席で卒業し、内科助手となった。同級に高橋順太郎、中濱東一郎、森林太郎、小池正直、賀古鶴所がいる。
明治15年(1882年)第5回文部省国費留学生に選ばれ、ドイツのライプツィヒ大学に留学、コーンハイムに師事。翌年ベルリン大学に移り、ルドルフ・ルートヴィヒ・カール・ウィルヒョーに師事。病理学を専攻し、ドクトル・デル・メディチーネの学位を得て明治20年(1887年)帰国。
帰国して間もない明治20年3月17日、帝国大学医科大学教授に就任し、病理学病理解剖学を担当することになり、この日が病理学教室創立の日とされた。明治24年(1891年)医学博士となった。明治35年(1902年)に再びヨーロッパ各国で病理学を研究。明治38年(1905年)陸軍省御用掛を兼ね、日露戦争の際に現地で脚気を調査。明治39年(1906年)には帝国学士院会員に任じられた。帰国後医師を開業。当時国民病とされた脚気の研究のほか、ジストマ、マラリアなど各分野の研究に貢献した。明治43年(1910年)退官。大正3年(1914年)東京帝国大学名誉教授となった。
大正5年(1916年)2月2日、急性腹膜炎により死去。59歳であった。遺体は遺言により病理解剖に付された。墓所は谷中霊園にある。
佐佐木信綱の門下として和歌に優れ、「移岳」の雅号を持っていた。東京大学医学部2号館本館の東入口には「世の中の風あらく吹きしきるとも 心の海に波なたてそね」の歌碑が掲げられている。
栄典
編集著作
編集- 『剖検法』
- 『脚気治療法』
- 『脚気の病理』
脚注
編集- ^ 『重教七十年の旅. 前編』p11
- ^ 『官報』第5243号「叙任及辞令」1900年12月21日。
- ^ 『官報』第6148号「叙任及辞令」1903年12月28日。
- ^ 『官報』第8608号「敍任及辞令」1912年3月2日。