三宅 光治(みやけ みつはる、1881年明治14年)5月22日[1][2] - 1945年昭和20年)10月21日[1][2])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。旧姓・山田。

三宅光治

経歴

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三重県出身[1][2][3]。山田光寿の三男として生れ、1901年(明治34年)三宅はる の養子となり家督を相続した[1][4]

1901年11月、陸軍士官学校(13期)を卒業[1][2][3]。翌年6月、歩兵少尉に任官し歩兵第33連隊付となる[1][3]日露戦争に出征し、1905年(明治38年)5月から1906年(明治39年)1月まで満州軍副官を務めた[1]。1910年(明治43年)11月、陸軍大学校(22期)を卒業した[1][2][3]

1910年12月、第1師団参謀となり、陸軍省軍務局課員、陸軍省副官兼陸軍大臣秘書官などを歴任[1]。1915年(大正4年)8月、歩兵少佐に昇進[1]。1919年(大正8年)4月、欧州に出張し平和条約実施委員(オーストリア・ハンガリー駐在)を務めた[1][3]。1919年(大正8年)7月、歩兵中佐に進級[1]。1922年(大正11年)7月、陸軍兵器本廠付(新聞班長)に就任[1][3]

1922年8月、歩兵大佐に昇進[1][3]。1924年(大正13年)2月、近衛歩兵第4連隊長に就任[1][3]第4師団参謀長を経て、 1927年(昭和2年)7月、陸軍少将に進級し歩兵第5旅団長となる[1][2][3]。1928年(昭和3年)8月、関東軍参謀長に転じ、満州事変に対応した[1][2][3]。1932年(昭和7年)4月、陸軍中将に進み参謀本部付となる[1][2][3]。同年6月、陸軍運輸部長に転じ、1935年(昭和10年)3月、第20師団長に親補され朝鮮に赴任[1][2][3]。1936年(昭和11年)12月、予備役編入となった[1][2][3]

1938年(昭和13年)12月、軍人援護会副会長に就任[1]。1940年(昭和15年)11月[注 1]から1945年(昭和20年)8月まで満州国協和会中央本部長を務めた[1]。終戦後、シベリア抑留となり、その後、モスクワに移送されルビアンカ監獄で死去した[1][2][3]

栄典

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外国勲章佩用允許

脚注

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注釈

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  1. ^ 『日本陸軍将官辞典』702頁、『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』176頁では昭和15年7月。

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w 『日本陸海軍総合事典』第2版、152頁。
  2. ^ a b c d e f g h i j k 『日本陸軍将官辞典』702頁。
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』175-176頁。
  4. ^ 『人事興信録』第10版 下、ミ35頁。
  5. ^ 『官報』第3037号・付録「辞令二」1937年2月19日。

参考文献

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  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
  • 人事興信所編『人事興信録』第10版 下、人事興信所、1934年。