ラ・バタイユ (1934年の映画)
『ラ・バタイユ』(フランス語: La Bataille、英語: The Battle / Thunder In the East)は、ニコラ・ファルカスとヴィクトル・トゥールジャンスキーが共同で監督し、1934年に公開されたフランスとイギリスの合作映画[1]。この映画は、フランス語版『La Bataille』と英語版『The Battle』が並行して制作され、前者ではアナベラ、後者ではマール・オベロンがヒロイン役である主人公の妻を演じているが、他のおもな配役は同一である[1][2]。
ラ・バタイユ | |
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La Bataille The Battle / Thunder In the East | |
監督 |
ニコラス・ファルカス ヴィクトール・トゥールジャンスキー |
脚本 |
ニコラス・ファルカス ベルナール・ジマー |
原作 | クロード・ファレール『ラ・バタイユ』 |
上映時間 | 90分 |
製作国 | フランス / イギリス |
言語 | フランス語 / 英語 |
あらすじ
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キャスト
編集フランス語版『La Bataille』
編集- シャルル・ボワイエ - ヨリサカ侯爵 (Marquise Yorisaka)
- アナベラ - ヨリサカ侯爵夫人ミツコ (La marquise Mitsouko Yorisaka)
- ジョン・ローダー - ハーバート・フェアガン (Herbert Fergan)
- ベティ・ストックフェルド - ベッツィ・ホックリイ (Betsy Hookley)
- ヴァレリー・インキジノフ - ヒラタ (Hirata)
- ロジェ・カール - 画家ジャン=フランソワ・フェイズ (le peintre Jean-François Feize)
- アンリ・ファベール (Henri Fabert) - 提督 (l'amiral)
- ルネ・ドニオ - 記者 (Un journaliste)
- アンリ・ウーリー
英語版『The Battle』
編集製作
編集作中の日本人役は英仏の役者たちが演じているが、エキストラとして、フランス在住の中国人、日本人が動員されたといわれており、版画家の永瀬義郎は、セリフが一言だけの東郷平八郎役を演じたという[3]。
評価
編集一般公開に先立ち、読売新聞パリ支局長として試写を観た松尾邦之助は、「フイルム全體に藝術の香氣が薄く、統一した强い印象の無いのは殘念」などと概して否定的な論評を残したが、海戦の場面の描写については「海戰のところは相當良く撮れてゐる ... 早川雪洲の時のフイルムとは雲泥の差」と称賛した[4]。
監督のニコラ・ファルカスは日本を訪れた経験もあったが、日本文化への中途半端な理解が日本人の不評を買う結果となった[3][4]。特に、外国武官のもとから盗み出した暗号文のおかげで日本海軍が勝利するという展開は、日本公開への海軍の反対を呼び、日本では公開されなかった[3]。
アメリカ合衆国における公開
編集『Thunder In the East』(1935年)
編集英語版は、アメリカ合衆国では、『Thunder In the East』と題され、1935年8月に公開された。
『Hara-Kiri』(1943年)
編集英語版は後にリバイバルされることとなり[5]、新たに『ハラキリ (Hara-Kiri)』と題され、1943年に戦時下の反日プロパガンダ映画に編集し直された。大きな変更点は、真珠湾攻撃と日本の背信行為を語る前置きが付け加えられたこと、切腹が臆病な行為だとする結末部が追加されたことであった[6]。
脚注
編集- ^ a b c La bataille (1933) - IMDb - IMDbでは、いち早く1933年にトルコで最初に公開されたと記載されているが、他の典拠での裏付け確認ができないので、ここではフランスで公開された1934年を初公開として扱う。
- ^ a b The Battle (1934) - IMDb - IMDbでは、『The Battle』のタイトルでエントリーがある。
- ^ a b c 稲賀繁美「あいだのすみっこ不定期漫嚇連齢 第四回 歴史の珍品とその命運 新発見の日独合作フィルム 『武士道』(1926) をめぐって」(PDF)『あいだ』第105号、2004年9月20日、33-34頁、2020年7月7日閲覧。「これには中国人のエキストラのほかに、当時の在仏日本人たちが何人か駆り出されたらしい。筆者の知る限りもっとも詳細の記録を公けにしているのは、版画家の永瀬義郎である (『サンデー毎日』昭和9年9月16日号)。永瀬の報告では、彼は東郷元帥役。台詞は、...「左舷85度」という号令をひとつかけるだけ ... 監督ファルカッシュのいい加減な日本通には一同辟易したらしく、和服は左前、造船工場の製図工たちは高羽の下駄に裾を引く自袴といういで立ちだった、とか。ボワイエ扮する士官が外国武官の机からバルチック艦隊の戦略日程の暗号文を盗みだしたおかげで日本海軍が勝利した、とする筋には、帝国海軍がお冠、こんな国辱映画は封切りあいならん、ということでお蔵入 り。日本に売り付けて金儲け、という最初の日論みは、取らぬ狸のノノで、あえなく反故になった、と晩年の永瀬は語る (『放浪貴族』、1977)。」
- ^ a b パリ・松尾支局長「ラ・バタイユの試写を観る」『読売新聞・朝刊』1934年2月4日、4面。「フイルム全體に藝術の香氣が薄く、統一した强い印象の無いのは殘念。... 海戰のところは相當良く撮れてゐるし、この邊早川雪洲の時のフイルムとは雲泥の差です。こゝだけは面白く見ました。... フアルカス監督がなまじつか日本へ行つて薄つぺらに日本を知つて來たのが却つて禍胃になつてゐる。」 - ヨミダス歴史館にて閲覧
- ^ “Larkin Opens New Program”. The San Francisco Examiner: p. 15. (1944年3月24日)
- ^ “The Battle”. The British Film Institute. 2019年1月18日閲覧。
関連項目
編集- ラ・バタイユ (1923年の映画) - 同じ原作によるサイレント映画。