ビルマ共産党
ビルマ共産党(ビルマきょうさんとう、英語: Communist Party of Burma、ビルマ語: ဗမာပြည်ကွန်မြူနစ်ပါတီ、簡体字: 缅甸共产党; 繁体字: 緬甸共產黨、略称: CPB, 緬共)は、ビルマ最古の政党。最盛期には兵力1万人を擁し、40年に亘ってビルマ政府と抗争したが、1989年に勢力下の少数民族の反乱によって指導部は放逐された。しかし、40年に亘って独立状態を保った統治機構は、そのまま少数民族武装勢力に引き継がれ、現在に至っている。
ビルマ共産党 ဗမာပြည်ကွန်မြူနစ်ပါတီ Communist Party of Burma | |
---|---|
成立年月日 | 1939年8月15日 |
解散年月日 | 1989年 |
解散理由 | 勢力下の少数民族の反乱による指導部の放逐 |
本部所在地 |
ワ州・パンサン(1989年まで) ザガイン地方域(2021年から) |
政治的思想・立場 | 共産主義(毛沢東思想) |
公式サイト | Official site |
2021年に旧指導部による再結成宣言がなされた。
結成からビルマ独立まで
編集1939年8月15日に、英領インド帝国内で台頭した共産主義運動の影響を受けて、アウンサンを総書記としタキン・タントゥン、タキン・ソーをはじめとする6人のメンバーによって結成された[注釈 1]。
1940年に、CPBは独立運動組織リーダーでCPBの非公然メンバーだったアウンサンを中国に潜入させて、軍事的支援を得るために中国共産党との連絡を図った。
しかし、ラングーン市内で歯科医を開業して情報収集に当たっていた、日本海軍の国分正三予備役大尉配下の諜報員としてグループ内に潜入していたネ・ウィンが、この情報を日本海軍にもたらし、アウンサンは潜伏していた福建省アモイで日本海軍特務機関員に発見され、日本に連行された。
アウンサンの身柄を確保した日本軍は、ラングーンから昆明に至る援蒋ビルマルート切断のためにビルマ独立運動の利用価値を検討し、アウンサンの希望していた軍事的支援を与える事を見返りに、日本軍のビルマ侵攻への協力を取り付け、アウンサンはビルマへ戻り、CPBの公然・非公然メンバーを中心とする30人の同志を密航させ、海南島の海軍特務機関施設での軍事訓練に参加させた。
1941年12月になって、日本軍は南機関の監督の下でアウンサン達をタイへ移動させ、亡命ビルマ人200名を加えて、ビルマ独立軍(BIA)を結成させた。
1942年1月に日本軍はビルマ本土への侵攻を開始し、英印軍は敗退し日本がビルマを占領し、1943年8月にビルマはバー・モウを首班として独立し、アウンサンは国防大臣に就任した[注釈 2]。
1944年8月には、CPB・アウンサンを始めとするビルマ国軍の非公然CPBメンバー・人民革命党などが参加して抗日運動の秘密組織である反ファシスト人民自由連盟(AFPFL)が結成され、1945年3月に日本軍への蜂起を開始し、6月15日に対日戦勝利を宣言した。
武装闘争へ
編集1946年2月に、CPBは路線対立からタキン・タントゥンの率いる白旗共産党(大衆運動路線)とタキン・ソーの率いる赤旗共産党(武装闘争路線)の2つに分裂した[注釈 3]。
1947年1月27日、アウンサンと英国のアトリー首相は「アウンサン・アトリー協定」に調印。2月には国内各派・各民族のリーダーたちと、独立後のビルマ連邦に参加する事を誓約する「パンロン協定」を発表。4月には制憲議会選挙でAFPFLが202議席中196議席を獲得し圧勝したが、CPBは7議席しか獲得できなかった。
1947年7月19日に、アウンサンが政敵であったウー・ソオが雇った暗殺者に襲撃され6人の閣僚とともに暗殺され、CPBは強力な協力者を失い議会での活動は休止状態となった。
1948年1月4日のビルマの独立後、2月に入るとCPBに指導されたラングーンの港湾労働者がストライキを始め、3月にはCPB支持の農民達が示威行動を開始する。アウンサンの後を継いだウー・ヌ首相は3月27日に共産党幹部の逮捕を命じ、これを避けて逃亡したCPBは武装闘争に入った。
1962年に、ウー・ヌの政権はネ・ウィン将軍のクーデターで倒されるが、CPBは引き続き武装闘争を続けた。
ネ・ウィンは戦前の日本で見聞した統制経済を見本とし、『ビルマ式社会主義』を標榜して鎖国[注釈 4]と経済統制政策を実行し、計画経済の障害となる印僑・華僑[注釈 5]の経済活動を徹底的に抑えこみ、同時にビルマ社会主義計画党(BSPP)による一党独裁体制を敷いた[注釈 6]。
ラングーンなど大都市近郊の拠点を失った後のCPBは、シャン州北東部のコーカン(果敢)族・ワ族居住地域を根拠地とし、中国の全面的な軍事・民生援助を受けて中国-ビルマ間の国境交易の通行税を資金源とした[注釈 7]。
1966年から始まった文化大革命の影響を受け、CPB内にも紅衛兵が組織され党内の粛清がはじまる。この過程で古参幹部達が次々と消されて行き、最終的には指導者のタキン・タントゥンも1968年9月24日に護衛に射殺され、ビルマ人幹部の大多数が消えた指導部は、熱烈に毛沢東思想を奉じるインド系幹部と、軍事部門を支えるコーカン族・ワ族出身の兵士達によって構成されるようになった。
1976年の毛沢東の死後は、ビルマ政府との関係改善を図る鄧小平指導部の意向で支援量が減らされ、徐々にシャン州で採れるアヘンを資金源にするようになり、組織内の力関係がコーカン族・ワ族出身の兵士達の発言力を強める方向に変化した。
1980年末から1981年5月にかけて、ビルマ政府と和平交渉が行われたが、CPBが同党支配地域の承認などの要求に固執したため,交渉は決裂に終わった。
この間、ネ・ウィンが主導したBSPPの計画経済の非効率さは国民の生活を圧迫し、慢性的な消費財不足は闇市と密輸を蔓延させただけで、ビルマは最貧国へ転落してしまった[注釈 8]。ネ・ウィンが引退を表明した1988年に8888民主化運動が発生したが、ネ・ウィンの引退前の予告通りに軍が市民多数を射殺する事で鎮圧された。
崩壊と再構築
編集1987年の春季(乾季)にビルマ政府軍は大攻勢をかけ、旧援蒋ルート上にありCPB支配下では最大の交易市だったシャン州北西部のムセを陥落させ、はじめて中国国境へ到達した。
ムセの陥落でCPBは最大の収入源だった国境交易の通行税を失い、党内はコーカン族・ワ族出身の兵士達とインド系幹部の対立が激化し、ついに1989年の新年に軍事部門が指導部全員を逮捕して中国へ放逐するという事件が発生し、CPB指導部は消滅した[注釈 9]。
その後、コーカン族・ワ族出身の兵士達は、ワ族のチャオ・ニーライの指導下でワ州連合軍として再構成され、中国政府・軍も非公式にワ州連合軍への軍事援助を開始したため、老朽化した装備を更新できないビルマ政府軍を凌ぐ強力な軍事力を持つようになった。このほか、ポン・ジャーシン(彭家聲)が率いるコーカン族から成るミャンマー民族民主同盟軍(MNDAA)(2009年にミャンマー政府軍の攻撃を受けて親政府派と反政府派に分裂)、ウ・サイリン率いる東シャン州軍民族民主同盟軍(NDAA-ESS)、カチン新民主軍 (NDA-K) がビルマ共産党から分裂した。MNDAAとワ州連合軍とは友好関係にあり、ワ州連合軍が兵力を有償でMNDAAに貸与しているともされる。
ワ州連合軍は、表向きは中央政府に帰順したためビルマ政府支配下の一般社会で合法的に活動する事が許され、1988年の国軍クーデターで権力を握ったキン・ニュンを窓口に合法・非合法のビジネスで勢力を拡張し、ビルマ社会内で“赤い財閥”として台頭している[注釈 10]。 現在は、ビルマに大規模な投資を行っている中国政府と、現在のビルマ市民の生活を支えている中国製消費財の供給ルートを握っている強みを後ろ盾にして、ワ州連合軍側は和戦両様の構えで臨んでいる。
新生ビルマ共産党
編集クーデター直後の2021年3月15日、ビルマ共産党の軍事部門、人民解放軍 (People’s Liberation Army: PLA) の結成が32人の幹部により宣言された[1]。彼らは2018年からカチン独立軍支配地域で軍事訓練を受けていた[2][3]。1989年の崩壊以降ビルマ共産党は地下組織化していたが、現在の人民解放軍の幹部は崩壊以前の幹部との接点をもつという[1][3]。また、若い世代は左翼学生組織全ビルマ学生組合連合のザガイン地方域シュウェボ支部を基盤にしている[4][3]。
目的
編集ビルマ共産党は、活動目的について「人民解放軍は、労働者、農民、そして被抑圧人民が平等と団結を見出す人民民主共和国を目指している」としている[5]。
勢力
編集2023年時点で、人民解放軍は以下の3戦線を抱えている[1]。
- 第2戦線 (北部)
- 第1戦線 (タイ国境付近の沿海部,南部)
- 第3戦線 (中央部)
PLAはタニンダーリ地方域、コーカン、ザガイン地方域、タアン州、ナガランドで活動しているとしているが[3]、タニンダーリ地方域とナガランドでは拠点を築くことが出来ず、現在はザガイン地方域とモーゴッを中心に活動している[2]。
ミャンマー民族民主同盟軍第611旅団には、400以上の兵力を持つPLAの2個大隊が編入されている。PLAの総戦力は約1,000程度であるとみられる[2]。
同盟関係
編集PLAは2018年からカチン独立軍により武器の支援を受け、2021年からはミャンマー民族民主同盟軍による支援を受けている[4][2]。1027作戦ではPLAの兵士500人が参加している[6]。
ビルマ共産党は共産主義の普及・啓蒙には力を入れておらず、その代わりに抵抗勢力との同盟関係構築に注力している[3]。国民統一政府との関係は明らかではないが、タニンダーリ地方域においてPLAは国民防衛隊やコートレイ軍と協力し、南部三兄弟同盟を結成している[7]。
外部リンク
編集- ビルマ共産党公式サイト (ビルマ語)
- 人民解放軍公式Facebookページ (ビルマ語)
- The Nu-Atlee Treaty and Let Ya-Freeman Agreement, 1947[リンク切れ] Online Burma/Myanmar Library
- Burma Communist Party's Conspiracy to take over State Power and related information[リンク切れ] Online Burma/Myanmar Library
- Sixty Fighting Years[リンク切れ] The Guardian, CP Australia, October 20 1999
- No Option but Armed Struggle if Talks Fail: CP Burma[リンク切れ] CP India (Marxist), January 19 2003
脚注
編集注釈
編集- ^ 初期の党員はラングーン港のインド人港湾労働者が中心であり、インドとの関係が濃密な政党だったが、急速にビルマ人の間にも浸透した。
- ^ ビルマ独立は名目的なものに過ぎず、ビルマ人は日本兵を“チビスケ”との蔑称で呼び、アウンサン自身も1943年11月にイギリス軍に「寝返りを考えている」と信書を送り、1944年8月1日の独立一周年の演説で『ビルマの独立はまやかしだ』と発言するなど、日本軍とビルマ人の関係は急速に悪化して行った。
- ^ 最初に武装闘争を行ったタキン・ソーは1970年に政府軍によって逮捕されたが、1974年に30人同志の仲間だったネ・ウィンによって釈放され1989年まで生きた。皮肉な事だがCPB創設時のメンバーで最も長生きした人物となり、死の直前まで平和連合党なる政党の後援者をつとめていた。
- ^ 鎖国とともに、ビルマの通貨であるKyatは対USドルの交換レートが固定され、1USドル=Kyat6.68となったが、この値は現在でも有効であり、政府機関等での支払いには全てこのレートが適用される。実勢レートは1USドル=1,300Kyat程度であるので、単純に適用されると一部100円程度の雑誌や新聞等が200ドル近い値段となってしまう
- ^ ネ・ウィンの母方の家系は華人であり、本人は少年期を華人として育てられた。
- ^ BSPPの独裁体制を維持するため、国内中に秘密警察と民間人の警察補助員(江戸時代の岡っ引きに近い存在)による監視・密告網を構築し、政治的に問題があると見なされた市民は突然逮捕されて壮絶な拷問にかけられる事が日常化された。
- ^ 当時のCPB支配地域で流通していたのはイギリス東インド会社-英領インド帝国が発行していたルピー銀貨と中国の人民幣だった。ネ・ウィンの経済運営の失敗は、中国から流入する消費財に価値を与え、CPBをはじめとする国境沿いに拠点を有する反乱勢力の活動を支えた。
- ^ 財を蓄えた闇商人に打撃を与えるだけの目的で、当時のビルマ政府はチャット紙幣の不換改廃を繰り返した。はじめは50Kyat・100Kyatの高額紙幣が廃止され、25Kyat・75Kyatという紙幣が発行され、続いて15Kyat・35Kyatといった用途不明の紙幣まで発行された。しかし数年を置かずに、これらの紙幣は廃止され、今度は90Kyat・45Kyat紙幣が発行された。このためビルマ人は10kyat以上の紙幣を使用できなくなり、巨大な札束を持ち歩くようになった。現在は1000Kyat・500Kyat・200Kyat・100Kyat・50Kyatといった紙幣が使用されているが、今度は経済自由化と、農産物との物々交換で中国からの消費物資が大量に流入するようになったため、インフレが進行して更に巨大な札束が必要になっている。
- ^ 放逐されたCPB指導部は、軍事技術や民生統治の手法などの知識を提供する見返りに、近隣の少数民族に保護されつつ露命をつないでいる。
- ^ 2004年の初夏にビルマ政府軍の平和協定違反(瑞麗川以北への進駐)が発端となって、ワ州連合軍との間で大規模な軍事衝突が発生した。ビルマ政府軍は増派を繰り返したが1988年以降の国際的制裁の影響で軍の実力は低下しており、員数割れの部隊も多く苦戦を強いられた。 また、ラングーンではワ軍工作員による爆弾テロが頻発し、首都の治安が脅かされる事態に政府軍首脳は激高したが、いったんはキン・ニュンの周旋で停戦まで事態は沈静化した。しかし、この周旋が仇となりキン・ニュン本人が政府内で孤立し、失脚に追い込まれた
出典
編集- ^ a b c Christpher, Michael (2023年5月12日). “We don’t want to be slaves’: Meet the People’s Liberation Army of Burma” (英語). People’s World 2024年2月25日閲覧。
- ^ a b c d Aye Chan Su (2023年10月13日). “မြန်မာပြည်ရှိ လက်နက်ကိုင်တော်လှန်ရေး အင်အားစုများ (အပိုင်း ၂) [ビルマの武装革命勢力(パート2)]” (ビルマ語). Irrawaddy 2024年3月22日閲覧。
- ^ a b c d e Hein Thar (2023年12月11日). “Red dawn: Myanmar’s reborn communist army” (英語). Frontier Myanmar 2024年3月22日閲覧。
- ^ a b Ko Oo (2023年3月8日). “Myanmar’s Spring Revolution Aided by Ethnic Kokang Armed Group” (英語). Irrawaddy 2024年2月25日閲覧。
- ^ “Students of war: Myanmar’s potent but fractured student movement takes up arms” (英語). Frontier Myanmar. (2023年3月10日) 2024年3月22日閲覧。
- ^ “Who’s Who in the Two Major Anti-Regime Offensives in Myanmar?” (英語). Irrawaddy. (2023年12月12日) 2024年3月22日閲覧。
- ^ “Southern Brothers Army Formed as Three Resistance Forces Unite” (英語). Karen Information Center (Burma News International). (2023年11月30日) 2024年3月22日閲覧。