タングート
タングート(Tangut)とは、7世紀~13世紀ごろに中国西南部の四川省北部、青海省などに存在したチベット=ビルマ系民族である。
11世紀初めに西夏を建てた。中国語表記では党項[1]。日本語ではタンガットという記法も散見される。同じくタングート族、タングート人とも。また。タングートの前身は羌である。
歴史
編集党項の名前は正史の中で一番古いところでは『隋書』に伝があり、三苗(ミャオ族の前身と言われる)の末裔という。なお、チベット・ビルマ系とされるタングートと、ミャオ・ヤオ系とされる三苗との間では言語的に隔たりがある。
当時は鮮卑慕容部の系統の吐谷渾が青海に勢力を張っていたが、隋唐の遠征軍に大敗して衰退し、代わってチベット系の吐蕃が勢力を伸ばし、タングートはこれに押される形で東の陝西・甘粛に遷る。ここで牧畜・狩猟・農耕に従事していた。
タングートは東山部・平夏部・南山部・横山部などに分かれており、その内の平夏部が最も強く、中国に対して敵対的でもあった。平夏部の王族は拓跋を名乗っていたが、鮮卑拓跋部の流れを汲むものではなく、かつて大きく隆盛した同一族にあやかって、拓跋と称したものと見られる。
唐末、黄巣の乱が起きた際に平夏部の首長の拓跋思恭は唐を援助し、この功績により国姓の李を賜り、定難軍節度使に任ぜられ、夏・綏・銀・宥・静の5州を支配した。
中国で北宋が建国された後、拓跋思恭の玄孫の李継捧の時に内部で継承争いが起き、983年に李継捧は宋に対して静州以外を自ら献上して服属を許され、開封へと移り住んだ。しかし族弟の李継遷(拓跋思恭の弟の拓跋思忠の玄孫)はこれを良しとせずに宋に対して背いて、東の契丹に服属する事で契丹より夏国王に封ぜられた。後に宋に対して服属し、趙保吉の名を賜るが、すぐに宋に対して背き、李継捧が献上した四州を取り返して勢力を広げた。
1004年の李継遷の死後、子の李徳明が後を継ぐ。前年に契丹が宋と和解しており(澶淵の盟)、単独では宋と対抗できないので、翌年に和睦し、宋より銀一万両・絹一万匹・銅銭二万貫・茶二百斤の歳幣を受け取る事になった。
宋とは和睦したが、ウイグルなどとは抗争を続けて更に勢力を拡大し、李徳明の子の李元昊の時代に宋より独立して大夏を名乗った。中国側からは西夏と呼ばれる(西夏が存在している間の事は西夏の記事を参照)。西夏は1227年にモンゴル帝国のチンギス・カンによって滅ぼされ、チンギス・カンの孫のクビライ・カンが元を建国するとタングートは色目人の中に組み込まれた。
現在チャン族として知られている四川省北部の少数民族の言語は、西夏文字によって残されているタングート語と比較的近いとされている。
チベット語アムド方言を話す遊牧民のことをタングートと呼ぶ場合もあり、実際、古代のタングートの居住地域と、現在のチベット語アムド方言の話者が住む地域はほぼ重なっている。そのため、この地域のチベット族の中には、モンゴル化したテュルク民族がチベット人に同化しチベット語を話すようになったタングート人の末裔が恐らく多数含まれており[2]、古代の言語的な特徴を比較的よく残している人びとが、チャン族をはじめとする四川省北部のチベット・ビルマ系少数民族を形成していると考えられる。