鉄道員 (小説)
『鉄道員』(ぽっぽや)は、浅田次郎の短編小説。『小説すばる』平成7年(1995年)11月号に掲載され、後に同名の短編集にまとめられ、1997年4月に集英社から刊行された。
鉄道員(ぽっぽや) | ||
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著者 | 浅田次郎 | |
発行日 | 1997年4月28日 | |
発行元 | 集英社 | |
国 | 日本 | |
言語 | 日本語 | |
形態 | 上製本 | |
ページ数 | 288 | |
コード | ISBN 978-4-08-774262-6 | |
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本項では映画版やドラマ版、漫画版についても記述する。
概要
廃線を間近にした、北海道の元運炭路線であるローカル線の駅長に訪れる幸福を描いた作品。第16回日本冒険小説協会大賞特別賞。短編集は第117回直木賞受賞作で、140万部を売り上げるベストセラーとなった。
また、1999年に降旗康男監督、高倉健主演により映画化され、第23回日本アカデミー賞(2000年3月)の最優秀作品賞、最優秀主演男優賞など主要部門をほぼ独占した。
浅田次郎は、「散歩しているときに、あの(鉄道員の)ストーリー全部が一瞬にして頭の中に降って来た」と語っている。
収録作品
- 鉄道員(ぽっぽや)(『小説すばる』1995年11月号)
- ラブ・レター(『オール讀物』1996年3月号)
- 悪魔(『オール讀物』1995年11月号)
- 角筈にて(『小説すばる』1996年9月号)
- 伽羅(『小説すばる』1996年11月号)
- うらぼんえ(『小説すばる』1996年5月号)
- ろくでなしのサンタ(『小説新潮』1997年1月号)
- オリヲン座からの招待状(『小説すばる』1997年1月号)
あらすじ
主人公の佐藤乙松(おとまつ)は、北海道の道央(十勝・空知と推測されるが、あくまで架空)にある廃止寸前のローカル線「幌舞線(ほろまいせん)」の終着駅・幌舞駅の駅長である。鉄道員一筋に生きてきた彼も定年退職の年を迎え、また同時に彼の勤める幌舞駅も路線とともに廃止の時を迎えようとしていた。彼は生まれたばかりの一人娘を病気で失い、また妻にも先立たれ、孤独な生活を送っていた。
雪の正月、彼のもとに、真っ赤なランドセルをしょった少女が現れ人形を忘れて帰る。彼女の来訪は、彼に訪れた優しい奇蹟の始まりだった。
書籍
- 「鉄道員(ぽっぽや)」 集英社 初版1997年4月 ISBN 4087742628
- 「鉄道員(ぽっぽや)」 集英社文庫 初版2000年3月 ISBN 4087471713
- 「鉄道員、ラブ・レター」 集英社CDブック 初版1998年2月 ISBN 408901140X
- 下記ラジオドラマ収録作品
- 「鉄道員(ぽっぽや)」 集英社みらい文庫 初版2013年12月 ISBN 408321189X
ラジオドラマ
映画
鉄道員(ぽっぽや) | |
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監督 | 降旗康男 |
脚本 |
岩間芳樹 降旗康男 |
原作 | 浅田次郎 |
製作 | 「鉄道員」製作委員会 |
出演者 |
高倉健 大竹しのぶ 広末涼子 吉岡秀隆 安藤政信 志村けん 奈良岡朋子 田中好子 小林稔侍 |
音楽 | 国吉良一 |
主題歌 | 坂本美雨「鉄道員」 |
撮影 | 木村大作 |
編集 | 西東清明 |
製作会社 | 東映東京撮影所 |
配給 | 東映 |
公開 | 1999年6月5日 |
上映時間 | 112分 |
製作国 | 日本 |
言語 | 日本語 |
製作費 | 6億円[3][4] |
配給収入 | 20億5000万円[5] |
高倉健が『動乱』以来19年ぶりに東映映画に出演した作品である[6][7]。90年代を象徴するアイドルとして人気絶頂期だった広末涼子との共演や[6]、映画への出演が初めてであった志村けんの起用[6]、高倉とは初共演となる大竹しのぶ[6]、坂本龍一による主題歌なども話題を集めた[6]。
公開時期に放送されていた北海道の駅を舞台とした連続テレビ小説『すずらん』と併せて、JR北海道・JR東日本によるオレンジカードなどの販売、両作の撮影協力を発端にSLすずらん号運転開始という形で北海道で蒸気機関車が復活するといったタイアップも実現した。
映画版は原作のイメージを損なうことなく[6]、より幻想的に創りあげた[6]。本編上の時間軸は、幌舞線の廃止と乙松が退職を迎える寸前の現代の歳末から正月明けにかけてで、加えて乙松が回想する形式で、かつて炭坑の町だった幌舞に暮らしてきた人々にもスポットを当てている。
志村けんは2020年12月公開予定の映画『キネマの神様』に主演予定だったが[注 1]、クランクインを待たずに急逝した為、ドリフの映画やアニメ映画の吹き替え等を除くと本作が生涯唯一の実写映画出演作となった。
キャッチコピーは「男が守り抜いたのは、小さな駅と、娘への想い。」「1人娘を亡くした日も、愛する妻を亡くした日も、男は駅に立ち続けた…」[6]。
キャスト
- 佐藤乙松:高倉健
- 幌舞線とともに生きてきた鉄道員。蒸気機関車のカマ焚き・機関士を経て、1977年(昭和52年)より幌舞駅長を任じられ、退職を迎える。
- 「おっかない性格」を自負しているが、鉄道員一筋。常に列車到着時刻を気にかけ、静枝が亡くなっても「ぽっぽや」だからとなかなか涙を見せなかった。
- 寡黙だが部下や同僚を気遣っており「乙松さん」と慕われている。
- 佐藤雪子
- 乙松と静枝が結婚後17年を経てようやく授かった一人娘。両親から可愛がられたが、わずか生後2ヶ月で病死。乙松は仕事から離れられず、最期を看取れなかった。
- 佐藤静枝:大竹しのぶ
- 乙松の妻。乙松とともに駅を支える存在。
- 身体が弱く、暫く子供に恵まれず、ようやく授かった雪子も亡くす。
- 雪子の没後、しばらく経過した現在より2年前に病死。乙松は雪子の時と同じく、仕事から離れられず(交替人員がいなかったことが理由)、最期を看取れなかった。
- 3人の少女(佐藤雪子):山田さくや(幼少)、谷口紗耶香(小学校6年生)、広末涼子(高校生)
- 現代の乙松の許へ、見覚えがある人形を抱えて現れた少女とその姉2人。乙松と同じく「佐藤」と名乗る。
- 「正月休みで遊びに来た」と話したため、乙松は近所にある寺の住職の孫だと思い込んでいた。住職からの電話の折、「孫たちに遊んでもらっている」と告げると「娘も孫も帰ってきていない」と告げられ、少女が誰であるかを知ることになる。
- 杉浦仙次:小林稔侍
- 乙松の同僚。互いに「乙さん」「仙ちゃん」と呼び合う仲。幌舞線の機関士を経て、幌舞線のターミナル駅である美寄駅長に昇進。若い頃は血の気が多かったようだが、今では孫にデレデレしている好々爺。
- 退職後はトマムのホテル(本編では美寄駅に東京のデパートとJRの合弁でできるとされる駅ビル)へJRのコネで重役待遇で天下りすることになっている。乙松にも勇退後の再就職を誘いに正月に幌舞駅を訪れる。
- 杉浦明子:田中好子
- 仙次の妻。仙次から「おっかあ」と呼ばれる。乙松に代わって静枝の最期を仙次と共に看取り、最期を看取れなかった乙松を強く責めていた。
- 仙次と同じくらい乙松の人柄をよく知り、静枝の亡き後は支えになった。
- 杉浦秀男:吉岡秀隆
- 仙次と明子の長男。乙松からは「秀坊」と呼ばれる。幌舞線で高校へ通っていたことから乙松に感謝している。
- JR北海道の札幌本社(鉄道事業本部)で事務職を務める。乙松の退職後を案じる。
- 内示より早く、乙松へ幌舞線の廃止を電話で伝えた。
- 杉浦由美:大沢さやか
- 秀男の妻。
- 吉岡肇:志村けん
- 閉山した筑豊(福岡県)の炭鉱から、長期間石炭が掘れるからと幌舞へ移住してきた期間工の炭坑夫。
- 酒癖が悪く、妻と別れ、息子の敏行を満足に育てられなかった。
- 幌舞炭鉱の事故に巻き込まれ、帰らぬ人となる。
- 吉岡敏行:松崎駿司(小学生)→加藤敏行:安藤政信
- 肇の長男。母親が娘(敏行の妹)を連れて逃げたため、父親との二人暮らし。
- 父親の死後、当初は乙松と静枝が養子にしようと考えていたが、静枝が病弱であることからムネに育てられる。養子縁組したため、改姓している。
- イタリアへ数年間料理修行をした後に帰国。札幌でイタリア料理店を開店させる。
- 加藤ムネ:奈良岡朋子
- 幌舞駅前で「だるま食堂」を長く営んでいた。敏行からは「ばっちゃん」と呼ばれる。
- 肇の死去に伴い、敏行を引き取って育ての母となる。
- 近年の過疎化の影響で客が減ったために食堂を畳む。
- 飯田:中本賢
- 幌舞線の運転士。幌舞の出身。幌舞線廃止後の自分の身に不安を感じていた。
- その他の出演者
スタッフ
- 監督:降旗康男
- 脚本:岩間芳樹、降旗康男
- 音楽:国吉良一
- 撮影:木村大作
- 録音:紅谷愃一
- 照明:渡辺三雄
- 美術:福澤勝広
- 編集:西東清明
- 助監督:佐々部清、瀧本智行、高橋浩、金丸雄一
- 記録:石山久美子
- 別班撮影:佐光朗
- 音響効果:齋藤昌利、早川隆彦
- 選曲:薄井洋明、浅梨なおこ
- 技斗:二家本辰巳
- VFXスーパーバイザー:根岸誠
- 制作管理:生田篤
- 現像:東映化学
- 撮影協力:ほべつ銀河鉄道の里づくり委員会、赤平市、滝川市、追分町、占冠村、三笠鉄道記念館、夕張市石炭博物館、住友石炭鉱業、北海道放送、大井川鐵道 ほか
- 企画協力:大沢清孝
- 製作者:高岩淡
- 製作委員:広瀬道貞(テレビ朝日)、西條温(住友商事)、玉村輝雄(集英社)、菅徹夫(日本出版販売)、岩田吉夫(朝日新聞)、日高康(高倉プロモーション)、後藤亘(エフエム東京)、植村伴次郎(東北新社)、佐藤雅夫(東映)
- 企画:坂上順、神村謙二、御厨敏雄、後藤広喜
- プロデュース:石川通生、進藤淳一、角田朝雄、木村純一
- 製作:「鉄道員」製作委員会 (東映、テレビ朝日、住友商事、集英社、日本出版販売、朝日新聞社、高倉プロモーション、TOKYO FM、東北新社)
主題歌
挿入歌
- 鉄道員の歌(作詞:降旗康男 作曲:佐藤準)
- テネシーワルツ(静枝がハミングする曲)
- サウスポー(歌:ピンク・レディー だるま食堂で流れていた曲)
- 夢は夜ひらく(歌:藤圭子 泥酔した吉岡肇が乙松と仙次に介抱されながら歌っていた曲)
協力
製作
原作の直木賞受賞により、映像化の動きに火が付き[8]、映画化には15社が手を挙げ[9]、獲得競争が激しかった[9]。特に松竹も映画化を決定していたといわれる[4]。高倉健と長く苦楽を共にした東映東京撮影所(以下、東映東京)の撮影技師が定年を迎え、「どうしてももう一度健さんと仕事をしたい」と訴え[9]、それは東映東京の多くのスタッフにとっても総意であり[9][10]、坂上順東映東京所長に申し出て1997年春企画が動き出した[8][11][12]。岡田裕介は企画を出したのは、撮影技師ではなく、東映東京の企画営業スタッフ次長・石川通生で[8]、石川が東映東京の映像開発室プロデューサー・山本八洲男の協力を得て企画書を提出した、企画の提出は通常業務で、健さんの東映復帰を要請するアプローチは社内に何人かからあったようだ、と述べている[8]。
坂上所長も59歳になり、自身も定年が近いことから、日本映画逆風の中、撮影所での映画作りを復活させたいと考え、これが最後の仕事という意気込みで製作に挑んだ[9][13]。1997年夏頃の企画会議では乙松役は高倉しかいないという意見が大勢ではあったが[8][14]、乙松/仙次コンビは『蒲田行進曲』の風間杜夫・平田満コンビを推す意見もあった[8]。1997年秋過ぎに監督・降旗康男、脚本・岩間芳樹が決まったことから[14]、高倉の出演が映画化の絶対条件という流れになり[14]、浅田次郎も映画になるなら主人公は高倉に演じて欲しかったとされたため[14]、高倉さえ承諾してくれれば、すんなり東映で映画化出来る状況にはあった[14]。オフィシャルな形での出演交渉はシナリオ脱稿後でないと出来ず[8]、岩間シナリオは9ヵ月改稿を重ね、1998年8月に完成[8]。しかし高倉はしょぼくれた駅員役に出演を渋ったといわれる[15][16][17]。すんなりはいかなかったが、東映東京のスタッフたちの熱い思いから、1998年9月、降旗邸で降旗、坂上、高倉が顔を合わせ、高倉が正式に出演を承諾した[8][11][15][17]。高倉が出演を承諾してくれたことで、監督・降旗、脚本・岩間、撮影・木村大作と仕事人を集結させ、浅田に企画書を提出し[16]、浅田から映画化権を獲得した[9][16]。邦画メジャー三社は1990年代に入ると自社主導で製作する映画をめっきり減らし、メガヒットの製作母体は邦画メジャーの手を離れていた[4][18][19]。このため、映画化を画策しなかった東宝が、東映の自社製作の大作の動向に強い関心を持った[4]。本作にも出演する広末涼子は東宝製作の『秘密』に早くから出演が決まっていたが、東映の製作の根を刈ってはならないと配慮し、また東映の動向が東宝自体にも跳ね返ってくるという計算があり、広末のキャスト発表を遅らせた[4]。
降旗監督は「最初、東映とは別の会社から、原作権を取る段階で名前を貸してくれって電話をもらい、その後、東映が原作権を取って正式に話が来たんです。でも原作は短編ですし、映画化するには長さが足りるかとか、今時このような駅はどこにあるんだろうとか、全部セットを作ると大変な金がかかるなあとか考え、前途多難だなと思い、東映に『覚悟なさってるんですか』と聞いたら、『当然です』と言われたから「じゃあやりましょう」と返事した」と述べている[16]。
撮影の木村大作は「健さんは当初は『しょぼくれた駅員なんて、あまりやりたくないね』とあまり乗り気でなかった…一方で健さんと青春時代を共に過ごした東映東京のスタッフが、最後にもう一度健さんと仕事がしたいと立てた企画で、それで完全にNGにならずに足踏み状態が続いた。最終決断を迫られる時期になって、健さんが降旗監督に『どんな映画になるんでしょうか』と尋ねたら、『いい映画になると思います。5月の雨に濡れるような映画です』と答えて、健さんが出演を決意したと聞いた」[17]、「俺は99.9%ボツになると思っていた。企画はずいぶん前からあったけど、俺も原作読んでさ、こんなしょぼくれた老人を健さんは絶対やらんだろうと思っていた。それをプロデューサーの坂上(順)がしつこく粘ったということと、降旗監督が健さんと何遍か会ってね、健さんが断ったらあっさり引く人が『これはやった方がいいんじゃないですか』と言ったらしいんだな。俺は原作読んでもちっとも面白くなくてさ、俺はやりたくなかったんだよ。降旗さんが端的に言ってるけど、これは中年のアイドル映画だよ」等と述べている[15]。
岡田茂東映会長は「降旗君が来てどうしてもやらせてくれ、成功すると言うので、高倉君は彼とは盟友だから、高倉君はノッってるのかと聞いたら、僕が口説きますというので製作させた」と述べている[20]。
脚本
坂上は高倉主演・降旗監督のコンビには既に打診し[13]、承諾はまだもらっていない段階の1997年夏[13]、脚本の岩間芳樹に執筆を依頼[13]。岩間の北海道を舞台にした作品や定年を書いた幾つかのテレビドラマを観て、本作にマッチするものと判断しての依頼で岩間は快諾した[13]。岩間は東北の出身で若い頃から北海道を舞台にした作品を多数書いていた[13]。この際坂上から主人公に日本の戦後史を重ねたいと依頼があった[13]。岩間は主演が高倉とまだ聞いていなかったが、脚本段階で高倉をイメージしてホンを書いた[13]。降旗監督との最初の打ち合わせで、原作の短編を拡げる作業として岩間が戦後の北海道史にまで拡げたいと提案し[16]、降旗が日本の戦後史でもいいんじゃないかと返答した[16]。ところが岩間が書いた第一稿には、ある鉄道員の一代記のような面が強く感じられたため、降旗はこれでは回想シーンがこんがらがって困るので、二人の鉄道マンの2、3日の話にした方がいいと提案したため、全編回想シーンの連続のような構成になった[16]。シナリオ執筆は1997年11月から3ヶ月かけ、第一稿を書いたが[8]、高倉の出演がこのシナリオにかかっていることから、この後降旗と第6稿まで改稿を重ね1998年8月に完成[8]。高倉は第6稿まで全てに目を通した[8]。
製作費
最初は協賛出資者は、東映とテレビ朝日、高倉プロモーションの3社だったが[14]、そこへ朝日新聞が飛び込み、東北新社、住友商事、FM東京、日販、集英社も出資するとなり、結局9社の出資になった[14]。出資額はテレビ朝日・住友商事(各7,000万円)、集英社(5,000万円)、日販(3,000万円)、朝日新聞・高倉プロ・FM東京・東北新社(各2,000万円)[8]。東映が残り半分の3億円を出資した[8]。総製作費5億5,000万円[8]。宣伝展開を含むと実質15億円規模の物量投入[8]。高岩淡東映社長は「直接製作費が5億円で間接費は東映が出します。なぜ出資してもらうかというと、出資者はみんな必死になって宣伝してくれるからです。前売り券を各社に負担してもらいますが、東映社内だけでこれまで最多の70万枚を受け持っています。岡田会長からは目標30億と号令を掛けられています」等と述べている[14]。大高宏雄は「直接製作費6億円を東映一社で全額出資は出来ず、製作委員会という形はとってはいないが、製作委員として名を連ねる企業が各2000万~7000万を出資した。特に朝日新聞社とテレビ朝日、新聞やテレビで全面的にバックアップし大きな援護射撃となった」等と述べている[4]。
製作会見
1998年10月末、「高倉健主演で『鉄道員(ぽっぽや)』が映画化」とマスメディアが一斉に報じた[8]。1998年12月18日に東京帝国ホテルで製作発表会見があり、高岩淡東映社長、浅田次郎、降旗康男監督、高倉健、大竹しのぶ、小林稔侍、広末涼子らが出席[8][12][11]。高倉は「すばらしい原作、すばらしいスタッフ、キャスト、故郷の東映東京撮影所……。先日、20年ぶりに衣装合わせに行って感慨無量になったのですが………。えーすいません……一生懸命…燃焼しようと思っています」と途中で言葉を詰まらせながら話した[11][12]。途切れ途切れの高倉の言葉に会場いっぱいに詰めかけた報道陣・関係者は、高倉の言葉の行間の思いを馳せながら次の言葉を待った[11]。高倉は本作まで201本の映画に出演し、うち138本が東映作品[12]。1980年の『動乱』以来の東映出演となった[12]。高岩東映社長は「命を賭けてこの映画をヒットさせる」、降旗監督は「イメージキャストがそのまま実現できました。私も健さんも主人公の佐藤乙松と同じ世代。人生の黄昏どきに差し掛かった世代です。それだけに人生にけじめを付ける…。自然と胸に湧き上がって来ます」、小林稔侍は「僕も東映育ちなものですから、当時、東映では色んなスターさんの派閥がありまして、僕は高倉一家に所属していましたから、いつも高倉さんの前では青春の、青年の気持ちでいるわけです。高倉さんに長年お世話になってきた。その思いだけで、この役に邁進したいと思っています」、大竹しのぶは「高倉さんと夫婦役で共演できるなんて夢のよう」、広末涼子は「この作品に出会えたことをすごく感謝しています」などと話した[8][11][12][14]。高倉は映画も5年ぶりで、最後に「映画俳優というのは映画を撮っていなければ、何を言っても虚しいんだなと感じた。持っているエネルギーを映像に燃焼したい」と話した[12]。夫婦の回想場面で使われる「テネシーワルツ」は高倉からの提案[4]。正式に採用が決まると高倉は「ええっ、困っちゃったなあ、言わなきゃよかった」と言ったが、押し切った[4]。
ロケハン
木村は『おもちゃ』の撮影が盆休みの間に[15]、北海道にロケハン[15]。イメージに合う駅を探し歩いた[15]。『駅 STATION』で使った上砂川駅など、いい駅はあっても廃線で線路がなく、行ってみたら工事中だったり、駅舎からホームから線路から全部作ってたら製作費が莫大になるし、もう企画は潰れるんじゃないかと諦めかけたとき、根室本線幾寅駅を見つけた[15]。 話にアルファリゾート・トマムが絡んでいるのは、幾寅には国民宿舎などはあるが、高倉を長期に泊めさせられないと、高倉をアルファリゾート・トマムに宿泊させて製作に入れたら、タダにしてもらえないかと交渉したら、半額にしますと言われた[15]。
撮影
乙松が駅長を務める「幌舞駅」は、根室本線幾寅駅を改造して撮影された[11]。駅前の床屋とだるま食堂などを建設した[15]。1999年1月11日、当地でクランクイン[8][11][16]。当日はマイナス20度[11]。日中は10分から20分おきに電車が入るため[15]、お昼12時から2時までの最も運転間隔の長い2時間に全てをかける撮影で、他の時間はリハーサル[15]。また当駅は終着駅ではなく、根室本線の途中駅であるため、電車が駅を出たら線路わきにスタンバイする20人以上のスタッフが一気に線路に雪を積み上げ終着駅のように見せた[15]。模擬の腕木式信号機や車止めを設置するなど、いくらかの細工が施されていた。本線と幌舞線が分岐するターミナル駅として登場する美寄駅は滝川駅で撮影された。北海道での撮影は3週間だが、この間雪が降ったのは3日間だけ[16]。
SLなど実景撮影を一週間少し撮り[16]、1999年1月24日、南富良野町のロケ現場にマスメディア約100人が参集[8]。2月10日より東映東京でスタジオ撮影[8][11]。待合室や事務室、居間や寝室などを含んだ幌舞駅の駅舎セットを同所に建設[11]。東映東京で撮影を続け[11]、3月上旬静岡県大井川鐵道ロケ[14]、1999年3月20日、クランクアップ[11]。CG処理等時間がかかるため、1999年4月いっぱいで完成予定[14]。
- 幾寅駅:幌舞線の終点駅「幌舞駅」として使われた駅。実際は根室本線の途中駅のため、撮影時のみ線路上に模擬の車止めなどを設置した。
- 滝川駅:道内のとあるターミナル駅「美寄駅」として駅構内などでの撮影に使われた駅。劇中では幌舞線が分岐する起点駅という設定。実際は函館本線から根室本線が分岐する駅。
- 大井川鐵道:撮影に使用された鉄道会社。家山駅とC11 227が撮影に使用された。
- 磐越西線:冒頭のシーンにて登場。D51 498による臨時列車「SL磐梯・会津路号」が走行する様子が撮影された。
高岩東映社長は「JR東日本の松田昌士社長以下の全面的なご協力があり、映画用の列車を持って来て、在来線を動かしながら撮影しました。国鉄時代なら考えられません(笑)」と述べている[10]。
デジタル処理
デジタルとは無関係の内容の映画だが[21]、当時の日本映画としては画期的な本編の38%、42分に及ぶデジタル処理を行っている[21]。回想シーンは色を落としてモノクロに近く、袢纏などを範囲指定で赤を残す『シンドラーのリスト』で赤いコートを着た女の子に使った技術を用い[21]、電化区間で撮影したショットは架線を消去した[21]。
宣伝
撮影から前売り券販売まで、JR北海道、JR東日本、朝日新聞社[22]、集英社などの一流企業の協力が得られた[22]。特に朝日新聞は公開に合わせて号外を出した[22]。首藤昇悟東映映画宣伝次長がJRの全面協力を取り付け[8]、JRグループ全7社と提携し、全国主要駅にポスターの駅貼りを実施[8]、一部の私鉄と自衛隊からも提携プロモートを得られた[8]。JR東日本ではみどりの窓口やびゅうプラザで前売りを販売した[23]。またテレビ朝日、FM東京では特番が放映され[8]、降旗監督の母校・松本深志高校での生徒との懇談会は1998年5月27日にNHK朝の情報番組『おはよう日本』で全国放送されるなど、多彩な宣伝プロモーションが行われた[8]。この方式は次の『金融腐蝕列島–呪縛』でも踏襲されたが[22]、これらの多くを指揮したのが1988年に東映入りした岡田裕介で[22]、入社時は製作を担当していたが[22]、岡田茂東映会長の決断で1999年4月付で、映画営業部門担当取締役(EP兼企画開発部長)に移動していた[8][22]。映画界は、製作事大主義で、営業が疎かになりがちのための判断であった[22]。岡田裕介はこの後、東映が遅れていたシネマコンプレックス事業を推進した[22]。北海道初のシネコン・札幌シネマフロンティアは、本作の製作過程での坂本眞一JR北海道社長から、岡田へ同所へのシネコン誘致要請が切っ掛けで生まれたもの[24]。
興行成績
ブロックブッキングの拡大により[8]、全国東映系253館で公開され[23]、同時期に放送された同じ北海道のローカル線を舞台にしたNHKの朝ドラ『すずらん』との相乗効果もあり[8][21][25]、公開8週間で配収20億5,000万円[5][21]、興収では38億円の大ヒット[9][23]。8週間の後も一部の劇場で夜1回などのロングラン上映が行われた[23]。観客は40代から60代で全体の80%以上で[4]、1997年の『失楽園』よりも更に年配の客層だった[23]。当時シネコンはまだ黎明期であったが[23]、日本映画として初めて全国のシネコンで上映された[23]。シネコンはシニア層向きでないと分析されていたが、やや地方でその傾向は出た[23]。普段映画を観ない客層が映画館を訪れたため、パンフレットやポップコーンなどの売店の売上げが伸びない現象が起こった[23]。
ゴシップ誌『噂の眞相』での映画会社社員による覆面座談会形式の取材を基にするとした記事[26] では、本作のヒットにより、1997年の東映作品『北京原人 Who are you?』の損失をカバーできたという記述がある。
当時はテレビ局や出版社主導の映画製作が日本映画の中心になっていたため[19]、映画会社主導の作品が大ヒットしたのは久しぶりだった[19]。『映画時報』はヒットの勝因は、高倉健を古巣東映に呼び戻し、広末涼子の本格的映画初出演など、いろいろな要素が一つに結集した、これからの日本映画をどう作り、どう興行すべきかという一つの指標を示した、また東映がまだちゃんと映画を作る能力を持っていることを証明した等と評した[25]。大ヒットが確実になったのを見て[27]、長い低迷で苦虫を嚙み潰していた岡田茂東映会長も「天の利や!」と溜飲を下げ[10][22][27]、経済誌のインタビューで、「うちにとって歴史的な一作になりました。これで中心点ができました。正月の『GTO』も『踊る大捜査線』並みにいくにではないかと期待しています。なかなか難しいかもしれないが、狙いは年間配収100億円です。配収50億円の作品が一発出れば可能性はあります。いつかはそういう時代が来ますよ。今、うちは直営館の数をドンドン増やしています。もう7、8年もすれば配収が安定してくると思います。今、東宝さんが強いのは、直営館が完全に整備できているからです。うちは作った映画をテレビに売ったり、星(衛星放送)に売ったり、東宝さんとは別の生き方をしてきたわけですが、不動産も儲かりませんので、これを切って、興行網を整備しようという本来の映画の路線にします。今後『鉄道員(ぽっぽや)』のようなテレビや新聞社、出版社とのメディアミックスの映画はますます増えます。テレビ局もやりたがっているし、実際にスタッフや俳優を集める力も持っています。映画会社に映画を作る力が弱まっていることは事実です。自分のところで作って自分のところで配給して興行してもたかが知れています。たまに当たっても5億円か6億円でしょう。でも映画は映像の世界の横綱ですからこれは大事にしないといけません」等と話し[27]、この後、東映としても1999年は、本作や『金融腐蝕列島–呪縛』など、久しぶりにヒット作が続き[22]、2000年3月期の連結決算で、前期28億6,700万円の赤字から最終損益が7億3,100万円の黒字に転換した[22]。
受賞歴
- 第23回日本アカデミー賞
- 最優秀作品賞
- 最優秀監督賞:降旗康男
- 最優秀脚本賞:岩間芳樹・降旗康男
- 最優秀主演男優賞:高倉健
- 最優秀主演女優賞:大竹しのぶ
- 最優秀助演男優賞:小林稔侍
- 最優秀撮影賞:木村大作
- 最優秀照明賞:渡辺三雄
- 最優秀録音賞:紅谷愃一
- 第73回キネマ旬報賞
- 読者選出日本映画ベスト・テン第1位
- 主演男優賞:高倉健
- 読者選出日本映画監督賞:降旗康男
- 第54回毎日映画コンクール
- 第42回ブルーリボン賞
- 主演男優賞:高倉健
- 第12回日刊スポーツ映画大賞・石原裕次郎賞
- 主演男優賞:高倉健
- 新人賞:広末涼子(『秘密』と合わせて)
- 第17回ゴールデングロス賞優秀銀賞、全興連会長特別賞
- 第23回モントリオール世界映画祭男優賞(高倉健)[注 2]
作品の評価
麻生千晶が『産経新聞』1999年6月7日付で「高倉健は立ち姿も美しく孤高の人を演じているが、物語自体のどうしようもなく古めかしさに昭和30年代の映画かとみまがうほどだ。テレビドラマの方がまだまだましと言いたいほどの退屈作」などと貶したが[4]、大高宏雄は「表面的にはある種の正鵠を射てはいるとは思うが、私はそう簡単には断定できないと思う。『鉄道員』を観て私が思い出したのは1975年の『新幹線大爆破』である。それは当時のパニックものの影響下で東映が作った渾身の期待作だった。私は封切時に歌舞伎町東映で観て、あまりの面白さに血沸き肉躍ったものだ。高倉健の代表作と鉄道との不思議な符牒イメージとその相関関係は確かに興味深いが、それ以上に私の気持ちを捉えるのは両作品の間に横たわる20数年の歳月である。つまり『新幹線大爆破』と『鉄道員』への映画の移り変わりこそが、日本映画の変貌の形を如実に表しているのだろう。確信犯的犯罪者から、定年を間近に控えた実直なサラリーマンという高倉健の役柄の変化。反体制的視点に裏打ちされた緊密なサスペンスから、家族愛を背景にした人間ドラマという内容面での変化。当時の国鉄に、撮影協力を拒まれた『新幹線大爆破』からJR全面協力のもと、みどりの窓口で映画チケット販売まで行われた『鉄道員』という外的な変化もこれに加えれば、この歳月の意味が否応でも明らかになってくる。東映は70年代中期まで続いたヤクザ映画隆盛のおかげで、邦画4社の中では業績トップを維持した背景もあり、新たな映画ジャンルの発掘に取り組むことが出来た。日本映画のエンターテインメント大作を考える上で、70年代に3本の重要な作品があった。『日本沈没』『新幹線大爆破』『太陽を盗んだ男』の3本で、その興行成否はそれぞれ東宝、東映、独立系の製作会社にとって、以降の製作姿勢、及びパワーバランスを決定付けるほど大きな意味を持った(中略)。おそらく『鉄道員』の登場が意味してるのは、日本映画が進むべき方向性の一つのエンターテインメント大作ではなくて、文芸大作への道。その芽に至るまでに、いったいどれほどの苦闘の日本映画の歴史があったことか。これを私たちは、作る側も観る側も、日本映画が辿ってきた生々しい現在形としてまず認めなくてはならないと思う。そうした諸々を反映しながら『鉄道員』は、日本映画界がギリギリの踏ん張りを見せて世に放った作品ということが出来る。『鉄道員』を観て私がハッとしたのは、高倉健のセリフの多さであった。今回の高倉は異常なほど喋っているのではないか。往年の任侠映画に於ける高倉の役どころは常に耐える男、沈黙の男である、その定型を彼自身が今回大きく変えようとしているところにこそ、人を強く惹きつける要素があったように思われる。友人である小林稔侍とのちょっと度外れた密着ぶりや、生きていればりっぱに成長したであろう娘への執着ぶりは、高倉の長い俳優人生の中で初めて見せた演技であるし、不治の病で死んだ妻への愛惜の曲が『テネシーワルツ』とくれば、年配の観客たちは誰だって実生活上の夫人のことを想起する。私は『鉄道員』が、表面上の古めかしさを超えて心を打ってくる理由は、高倉健という俳優が今回はじめて素直に自分をさらけ出したことを措いてないと思う。物語と密接に絡んだ高倉健の捨て身の演技が多くの観客の支持を受けたに違いない。『新幹線大爆破』から24年。この歳月の中に日本映画の流転の道程を超えて、高倉健という日本を代表する俳優のまごうことなき変質があった。これが日本映画である。年配の観客たちは、無意識にせよ自身の過ぎ去った歳月をそこに重ね合わせながら映画に見入っていたに違いない」などと論じている[3][4]。
ビデオ
公開半年後の1999年12月10日、東映ビデオよりレンタル開始[21]。112分2秒[21]。価格不明。
ロケ地となった路線の現状
映画版は、現在の根室本線で撮影されており、幌舞駅の舞台となった幾寅駅は現在も聖地として有名である。しかし、2016年の台風被災により幾寅駅を含む東鹿越〜新得間が不通となり、2022年には撮影区間を含む富良野(~東鹿越~幾寅)〜新得間の廃止及びバス転換への容認が決定した。皮肉にも、舞台となった実際の駅や区間もまた映画版と同じ運命を辿る事になってしまった。
ドラマ
2002年1月1日、テレビ朝日系列の新春スペシャルドラマとして「鉄道員/青春編」が放送された。内容は1964年、炭鉱が斜陽期に差し掛かっていた時代の幌舞を舞台としており、仙次と初代の結婚式に始まって、乙松が映画館窓口係を務めていた静枝と知り合い結ばれる所から、原作と同じ結末を迎えるまでを描いている。ドラマでは、原作のラストにあたる部分に独自の脚色も加えられた。
漫画
映画公開後に講談社『月刊アフタヌーン』1999年9月号にてながやす巧による長編コミカライズとして掲載され、同年に単行本化された。
「ながやす巧 作品集」巻末エッセイでのながやすの弁によれば、原作の単行本刊行時から取材・制作を行っていたものの、全ての原稿が完成してからの掲載となり、時期が映画化後になったとされている。このため、キャラクターデザインは映画版を踏襲しておらず、オリジナルのものである。シナリオは原作に忠実であるが、原作や映画版では端役だった現代の幌舞線の若手運転士である早川の役回りが多くなっている。漫画は原作本来のキハ12形をモデルとして描かれている。
- 収録本
- 講談社文庫『鉄道員/ラブ・レター』 ISBN 4062748266(2004年6月15日発行、1999年10月6日発行のKCDXを文庫化したもの)
- 講談社『ながやす巧 作品集』ISBN 9784063755602(2008年9月22日、ムック扱い)
舞台
- 2000年版
- スタッフ
- 出演
- 公演日程
- 【東京】2000年9月2日、かめありリリオホール/同年9月26日、江戸川区総合文化センター/同年10月5日 - 8日、シアターアプル
- 【群馬】2000年9月3日、桐生市市民会館
- 【新潟】2000年9月5日、新井総合文化ホール
- 【宮城】2000年9月6日、岩出山町文化会館/同年9月7日、仙南芸術文化センター
- 【福島】2000年9月10日、福島テルサ
- 【愛媛】2000年9月12日、丹原町文化会館
- 【大阪】2000年9月15日 - 17日、シアタードラマシティ/同年10月1日、摂津市民文化ホール/同年10月3日、すばるホール、
- 【名古屋】2000年9月18日 - 19日、中日劇場
- 【京都】2000年9月21日、京都府丹後文化会館
- 【鹿児島】2000年9月23日、鹿児島県文化センター
- 【静岡】2000年9月27日、アクトシティ浜松/同年9月28日、三島市民文化会館
- 【茨城】2000年9月29日、東海文化センター
- 【兵庫】2000年10月2日、たんば田園交響ホール
関連項目
作品
- 駅 STATION
- 新幹線大爆破
- すずらん
- ホタル (映画)
- 高倉の映画「鉄道員」の次回作(2001年、東映映画)。こちらも高倉(主演)・降旗(監督)・木村(撮影)のコンビで製作された。
- GTO (1998年のテレビドラマ)#映画
- 1999年12月公開の東映映画。映画「鉄道員」とは別編成で撮影・制作されているが、ふるさと銀河線をロケ地とし、出演者やスタッフの一部が「すずらん」と重複しており、「すずらん」と「鉄道員」の要素をより抜いた一面がある。
- 水曜どうでしょう
- 1999年の企画「ヨーロッパ・リベンジ」で、過酷な旅を終えて帰国する際に、日本航空の航空機内で「鉄道員」が上映されており、感動のあまり一同は号泣した。テレビでのOAでは上映したスクリーンは番組ロゴで潰されていたが、DVD化にあたり許諾を得て、ラストシーン近辺の上映中の機内の様子が収録された。
脚注
注釈
出典
- ^ “放送ライブラリー / 浅田次郎ワールド・鉄道員「ラブ・レター」(1997年10月17日、文化放送)”. BPCJ 公益財団法人 放送番組センター. 2022年10月5日閲覧。
- ^ “NHKアーカイブス NHKクロニクル / 日曜名作座「浅田次郎短編集"鉄道員(ぽっぽや)"」第1回『鉄道員(ぽっぽや)』(1997年11月23日放送、全4回)”. NHK 日本放送協会. 2022年11月1日閲覧。
“NHKアーカイブス NHKクロニクル / 日曜名作座「浅田次郎短編集"鉄道員(ぽっぽや)"」第2回『うらぼんえ』(1997年11月30日放送、全4回)”. NHK 日本放送協会. 2022年11月1日閲覧。
“NHKアーカイブス NHKクロニクル / 日曜名作座「浅田次郎短編集"鉄道員(ぽっぽや)"」第3回『角筈にて』(1997年12月7日放送、全4回)”. NHK 日本放送協会. 2022年11月1日閲覧。
“NHKアーカイブス NHKクロニクル / 日曜名作座「浅田次郎短編集"鉄道員(ぽっぽや)"」第4回・最終回『オリヲン座からの招待状』(1997年12月14日放送、全4回)”. NHK 日本放送協会. 2022年11月1日閲覧。 - ^ a b 大高宏雄「映画戦線異状なし 『鉄道員(ぽっぽや)』が意味するもの(1)」『キネマ旬報』1999年7月下旬号、キネマ旬報社、150–151頁。大高宏雄「映画戦線異状なし 『鉄道員(ぽっぽや)』が意味するもの(2)」『キネマ旬報』1999年8月上旬号、キネマ旬報社、154–155頁。
- ^ a b c d e f g h i j k 大高宏雄「『鉄道員(ぽっぽや)』が意味するもの」『日本映画逆転のシナリオ』WAVE出版、2000年、77–84頁。ISBN 978-4-87290-073-6。
- ^ a b 1999年配給収入10億円以上番組 - 日本映画製作者連盟
- ^ a b c d e f g h “鉄道員(ぽっぽや) デジタルリマスター版”. 東映. 2022年11月27日閲覧。
- ^ “ひとシネマ:鉄道員(ぽっぽや)”. 毎日新聞社. 2013年6月22日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad 「東映・岡田剛映画営業部門担当インタビュー 『東映が直面するもう一つの問題点』」『AVジャーナル』1999年8月号、文化通信社、24–31頁。
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- ^ a b c 「佐藤正忠の極意対談 連載第400回 ゲスト・高岩淡 『日本映画の持つ独特な雰囲気、そこにはいつも情熱があふれている』」『経済界』1999年11月9日号、経済界、142–145頁。
- ^ a b c d e f g h i j k l m 浜田佳代子「ぽっぽや人生を全うした主人公の生き方に映画人の思いが重なる 『鉄道員(ぽっぽや)』撮影現場の報告」『シネ・フロント』1999年4月号、シネ・フロント社]、24–26頁。
- ^ a b c d e f g 川村章子「製作 健さん19年ぶりの東映作品 『鉄道員(ぽっぽや)』製作発表」『キネマ旬報』1999年2月上旬号、キネマ旬報社、120頁。
- ^ a b c d e f g h 「映画『鉄道員(ぽっぽや)』 創作ノート 岩間芳樹インタビュー 北の風雪」『シナリオ』1999年7月号、日本シナリオ作家協会、16–18頁。
- ^ a b c d e f g h i j k 松崎輝夫「『鉄道員(ぽっぽや)』にオール東映の総力を結集! 2001年の創業50周年へ向け逞しく、積極果敢に戦い抜く 特別インタビュー 東映社長・高岩淡」『映画時報』1999年3月号、映画時報社、28–38頁。
- ^ a b c d e f g h i j k l 兼松熈太郎(JSC)・佐々木原保志(JSC)・渡部眞(JSC)・高間賢治(JSC)「撮影報告 『鉄道員(ぽっぽや)』を語る」 / 木村大作(JSC)」『映画撮影』、日本映画撮影監督協会、1999年8月15日、30-36頁。
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- ^ 勝田友巳 (学芸部) (1999年2月9日). “〔ニュースな展望〕 好調な日本映画界 進む業界の構造変革”. 毎日新聞 (毎日新聞社): p. 4
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- ^ “第8回 すばらしき映画人 東映前会長岡田裕介と吉永小百合 実録的東映残俠伝― 五代目社長 多田憲之が見た東映半世紀 1972~2021― 文=多田憲之(東映株式会社代表取締役会長)p.2”. コモ・レ・バ? (CONEX ECO-Friends). (2022年7月27日). オリジナルの2022年11月14日時点におけるアーカイブ。 2022年11月30日閲覧。
- ^ a b 「99・夏興業本命『スター・ウォーズ エピソード1』全国制覇 2着『ポケモン2~』『アイズ~』も健闘 ジブリ『となりの山田くん』着外に沈む」『映画時報』1999年8月号、映画時報社、4–15頁。
- ^ 『噂の眞相』1999年12月号「断末魔の松竹と“怪文書の日活”日本映画界に立ち込める暗雲の元凶」
- ^ a b c 「Topics 『鉄道員(ぽっぽや)』は日本映画界を蘇らせるか、岡田茂・東映会長が吼える!」『経済界』1999年8月17日号、経済界、42頁。