アート・ブレイキー
アート・ブレイキー(Art Blakey、1919年10月11日 - 1990年10月16日)は、アメリカ合衆国のジャズドラマー。「ナイアガラ・ロール」(Niagara Roll)と呼ばれる特徴的なドラミング奏法で知られる。
アート・ブレイキー | |
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Art Blakey, 1985年 | |
基本情報 | |
出生名 | アーサー・ブレイキー |
別名 | Abdullah Ibn Buhaina |
生誕 | 1919年10月11日 |
出身地 | アメリカ合衆国・ペンシルベニア州ピッツバーグ |
死没 | 1990年10月16日(71歳没) |
ジャンル |
ハード・バップ ファンキー・ジャズ |
職業 | ドラマー |
担当楽器 | ドラム, パーカッション |
活動期間 | 1940年代 - 1990年代 |
レーベル | ブルー・ノート・レコード |
共同作業者 |
アート・ブレイキー&ザ・ジャズ・メッセンジャー アート・ブレイキー・クァルテット アート・ブレイキー・クインテット アート・ブレイキー&ザ・アフロキューバン・ボーイズ |
公式サイト | http://www.artblakey.com/ |
人物・来歴
初期
10代後半からバンドで活動しニューヨークへ進出。一説には、当初はピアニストであったが、ある時からピアノを断念しドラムに転向した。きっかけは、ある夜、アート・ブレイキーが演奏するクラブに、クラブのボス(マフィアとの説も)がピアニストを連れてきて弾かせたところ、アートよりも優れた演奏をしたため、ボスはアートに「おまえはタイコでも叩いてな!」と拳銃をちらつかせながら脅したというものである。当初、ドラムの腕はたいしたことはなく、バンド仲間からはバカにされていたが、盟友であるトランペッターのディジー・ガレスピーからアドバイスを受け、みるみる上達したとのこと。
本格的な始動
1944年からビリー・エクスタインの楽団へ入り、1940年代後半からマイルス・デイヴィス、セロニアス・モンク、チャーリー・パーカーらと共演後、1954年から1955年にかけてホレス・シルヴァーと初代のジャズ・メッセンジャーズを結成。クリフォード・ブラウンやルー・ドナルドソンらを擁してジャズ・クラブのバードランドに出演して人気を博した。
1956年にシルヴァーが脱退した後、ジャズ・メッセンジャーズは不遇の時代を迎えた。それを打開するきっかけを作ったのが、1958年2月、当時ジャズ・メッセンジャーズにいたジャッキー・マクリーンが麻薬で逮捕されキャバレー・カードを没収されたことで、その代役を務めたベニー・ゴルソンと出会ったことである。ここでブレイキーがゴルソンの几帳面な性格が気に入り、彼にグループの立て直しを要請。メンバーもトランペットにリー・モーガン、ピアノにボビー・ティモンズ、ベースにジミー・メリットと自分とゴルソン以外は全員入れ替え、今や代表曲となっている「モーニン」(ティモンズ作曲)、「ブルース・マーチ」(ゴルソン作曲)等の新たなオリジナル曲が出来て新しいレパートリーに付け加えられ、1958年10月、新メンバーでのお披露目初公演をニューヨークのタウン・ホールにて行い大成功を収め、同月30日、ブルーノートに前記の曲を含めたアルバム「モーニン」(レコード番号:BLP/BST-4003)を収録し、同アルバムは翌月発売[1]これが大ヒットとなる。このレコードの発売当時、ブルーノートは海外でのプレスを一切許可していなかった関係で、1967年まで日本プレス盤は発売されなかった(発売当時、一部のレコード店で、僅かに米からの輸入盤LPが発売されていたものの、日本盤のほぼ倍の価格だった)。
しかし、このアルバム録音直後にバンドが欧州公演を行った際に、同年(1958年)12月28日にフランスのパリのサンジェルマンで録音されたライブ・アルバム『サンジェルマンのジャズ・メッセンジャーズ Art Blakey & Les Jazz Messengers Au Club St Germain』(仏RCA原盤)が当時の日本ビクター音楽部から発売され、また1959年公開のヌーヴェルヴァーグ映画作品『危険な関係 Les Liaisons dangereuses』(監督:ロジェ・ヴァディム)、『殺られる Des Femmes Disparaissent』(監督:エドゥアール・モリナロ)への音楽参加を契機として、日本でもこれらの曲が知られ大ヒットし、空前のファンキー・ブームが起こった。因みに、マイルス・デイヴィスも前年公開の『死刑台のエレベーター Ascenseur pour l'échafaud』(監督:ルイ・マル)での音楽を担当している。
「モーニン」の大ヒット後、ゴルソンは翌年(1959年)にジャズ・メッセンジャーズを離れ、その後はテナー・サックスはハンク・モブレーらが担当したが、同年(1959年)秋に、同楽器担当にウェイン・ショーターが入り、その際、ショーターは同バンドの看板曲の1つである「チュニジアの夜」を、ドラム・ソロを中心とするアレンジに新たにリメイクし、1960年8月14日、ブルーノートにアルバム「チュニジアの夜」(BLP-4049,BST-84049)の1曲として録音。これが、同曲のブレイキーの長いドラムソロの象徴的な曲として親しまれることとなった。
以後、彼はジャズ・メッセンジャーズのリーダーとして、様々なアルバムやコンサート等で活躍する。親日家で来日回数も多い(後述)。
ジャズ・メッセンジャーズは基本的に2管または3管のフロント+3リズムのコンボ形式のバンドである。
ドラマーとしての一番の特徴はメリハリのあるバッキング(ブラシでの寄り添うようなプレイから激しく煽る「ナイアガラロール」までの振幅)にあり、ことにシンバルレガートの滑らかで美しい音色は特筆される。また、アフロ・キューバンリズムをドラムセットで表現したパイオニアとしても記憶されるべきだろう。
彼の功績は現在のジャズ界に多大な影響を与えた。ただし、晩年の録音では視力や聴力の衰えに伴い、全盛期のようなプレイが満足に出来なくなってしまったことにより、評価は賛否相半ばした。
1990年、逝去。71歳没。
メッセンジャーズ出身者
アート・ブレイキーは多くの新人を発掘し、多くの著名なミュージシャンがメッセンジャーズから巣立った。50年代後半からはリー・モーガン、ボビー・ティモンズ、ウェイン・ショーター等が、60年代にはフレディ・ハバード、キース・ジャレット、チャック・マンジョーネ、シダー・ウォルトン、レジー・ワークマン等がメッセンジャーズ在籍をきっかけにスターになった。80年代に流行した新伝承派と呼ばれる若手プレイヤーを中心とした、モダン・ジャズムーヴメントで活躍したプレイヤーの多くがメッセンジャーズの出身である。第一線で活躍しているウィントン・マルサリス、ブランフォード・マルサリス、テレンス・ブランチャード、マルグリュー・ミラー、ジェイムス・ウィリアムス、ロニー・プラキシコ、ケニー・ギャレットなどがメッセンジャーズの出身である。長女エブリン・ブレイキー(2007年没)も、メッセンジャーズでの活動を経て、プロの歌手として成功を収めた。
代表作
- "Moanin'"(モーニン)/アート・ブレイキー・アンド・ジャズメッセンジャーズ
- "A Night in Tunisia"(チュニジアの夜)/アート・ブレイキー・アンド・ジャズメッセンジャーズ
- "A Night at Birdland Vol.1"(バードランドの夜 Vol.1)
- "A Night at Birdland Vol.2"(バードランドの夜 Vol.2)
- "The Freedom Rider"(ザ・フリーダムライダー)
- "The Big Beat"(ザ・ビッグ・ビート)
参考文献
- CDアルバム「モーニン」ライナー・ノーツ(執筆は大村幸則。CD番号 TOCJ-9003(東芝EMI(現EMIミュージック・ジャパン))
- CDアルバム「チュニジアの夜」ライナー・ノーツ(執筆は小川隆夫。CD番号 TOCJ-9082(東芝EMI(現EMIミュージック・ジャパン))
- 「ブルーノート・レコード オリジナル・プレッシング・ガイド」(フレデリック・コーエン著、行方均訳。ディスクユニオン刊)
- スイングジャーナル誌 昭和61年2月号
脚注
注釈・出典
関連項目
- 鑑賞マニュアル 美の壺 - NHKが2006年に放送を開始した教養番組で、「モーニン」が同番組のテーマ曲として使われている。