伊東祐安
伊東 祐安(いとう すけやす、生年不詳 - 永享6年3月5日(1434年4月14日))は伊東氏の第三代当主。
伊東 祐安(いとう すけやす、生年不詳 - 元亀3年(1572年))は戦国時代の武将である。伊東祐武の次男。加賀守。佐土原200町を領した。
天文2年(1533年)、父の伊東祐武が伊東義祐との家督争いに敗れると、義祐の傘下に入った。 一門の武将として飫肥攻めで活躍し、天文18年(1549年)の堰ノ尾の戦い、永禄9年(1567年)の耳田の戦いが記録に残っている。
永禄期に都於郡の家老が連署した「御感状連判人数」には、弟の伊東祐審が名を連ねているのに祐安の名は見えず、義祐と祐安の間には確執が残っていたようである。
元亀2年(1572年)、木崎原の戦いでは大将の1人として出陣し、飯野の備えとして後方で待機していた。 伊東祐信ら伊東方の先発隊は緒戦では優勢であったが、兵の疲れが見られ、木崎原に引き上げてきたところを 新納忠元と島津義弘に挟撃され、戦況が逆転。 伊東方は総崩れになり、祐安はしんがりを務めて戦死したという。
なお、一般には伊東義祐の義弟と言われるが伊東氏の記録にはないことで、島津義弘が祐安の弟・伊東祐審の一族を保護した際に広まった異説と見てよい。