松平親貞 (能見松平家)

江戸時代中期の大名。杵築藩第6代藩主。 能見松平家の人物。

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松平 親貞(まつだいら ちかさだ)は、江戸時代中期の大名豊後国杵築藩6代藩主。官位従五位下筑後守能見松平家12代。

 
松平親貞
時代 江戸時代中期
生誕 宝暦元年11月12日1751年12月29日
死没 寛政12年7月29日1800年9月17日
改名 千之助、雄之助(幼名)、親栄(初名)、親貞
戒名 恭裏院
墓所 大分県杵築市南杵築南台西の養徳寺
官位 従五位下筑後守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家治
豊後杵築藩
氏族 能見松平家
父母 松平親盈永井直陳
兄弟 親貞親賢親宝親安親清親長
清子、佐竹義祇継室、木下利彪正室、
小笠原長禎正室、松平勝政正室、
最上義明正室ら
保科正富、岸本氏
親明大久保親知松平信愛正室、
土井某室、有馬純長養女、親賢
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略歴

5代藩主・松平親盈の長男として誕生。明和4年(1767年)8月14日、父の隠居により家督を継いだ。

大坂加番役を務めた。明和9年(1772年)の明和の大火により江戸屋敷が全焼し、その再建の費用により藩の財政は更に窮乏した。天明3年(1783年)、親貞と改名した。天明5年(1785年)5月23日、病を理由に弟で養嗣子の親賢に家督を譲って隠居し、寛政12年(1800年)7月29日に死去。享年50。

系譜