大撤退

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大撤退ロシア語: Великое отступление)とは、第一次世界大戦中の1915年、ロシア軍がポーランドの突出部から行った戦略的撤退である。中央同盟国の夏の攻勢により、ロシア軍は莫大な損害を被っていたため、スタフカは突出部からの撤退を命じる事で、戦線を短縮化し、突出部が包囲される事を回避しようとした。撤退自体は適切に行われたものの、ロシア軍の士気は大いに低下した。

タンネンベルクの戦い

1915年のロシアの撤退
戦争第一次世界大戦
年月日1915年7月から9月
場所:ポーランド、ガリツィア
結果:中央同盟国の勝利、ロシア軍の撤退
交戦勢力
ドイツの旗 ドイツ帝国 ロシア帝国の旗 ロシア帝国
指導者・指揮官
エーリッヒ・フォン・ファルケンハイン
エーリヒ・ルーデンドルフ
ニコライ・ニコラエヴィチ
ミハイル・アレクセーエフ
ニコライ・イヴァノフ
戦力
11360000 12000000
損害
200000 500000-1000000

背景

中央同盟国は戦力の増強を図っていた。ドイツは新たに11軍、12軍、ブク軍、ネマン軍の4つの軍を編成した。ロシア軍は軍の増強のための官僚機構が貧弱だったため、着実に戦力をすり減らしており、特に将校の消耗は深刻であった。中央同盟国は13個軍を有していたのに対し、ロシアは9個軍のみであり、東部戦線での軍事バランスは大幅に中央同盟国側に有利に傾いた。ヴィルヘルムの圧力の下、ファルケンハインはヒンデンブルクとルーデンドルフに東部戦線での攻勢を求めた。しかしルーデンドルフとオーストリア・ハンガリー帝国の全軍を指揮していたフランツ・コンラート・フォン・ヘッツェンドルフは包囲攻撃を好んでおり、ロシア軍最高司令部のスタフカも包囲を警戒していた。しかしファルケンハインは中央同盟国の補給能力の限界を理由に包囲作戦を拒否した。

ポーランドの軍集団の司令官はこの時既にポーランドの突出部から撤退するためにスタフカを説得させようと試みたが、スタフカは政治的影響のためにそのような大規模な撤退は難しいと感じていた。スタフカはヴィスワ川までロシア第2軍を後退させるという部分的な退却も許可しなかったため、ロシア軍は戦術的に不利な防御線を守る事を強要された。

攻勢

当初は大きな抵抗があったものの、1915年の5月から7月のゴルリッツ=タルヌフ攻勢によって結果的にロシア軍の戦線は崩壊した。マッケンゼンの軍はサン川を渡り、プシェムィシルを奪還し、ロシア軍は22日にはリヴォフ(現ウクライナ領リヴィウ)から撤退した。この時、スタフカはポーランド南部の突出部から撤退し、ヴィスワ川沿いに新たな防衛線を構築しようと計画した。6月23日から27日の間、ドイツ軍はドニエストル川を渡り、新たに橋頭堡を確保しようとしたが、ロシアの反撃により、7月の初めには攻勢を停止した。

結果

ロシア軍は飢えが蔓延し、戦傷と病の流行で戦力が大幅に減少したのにもかかわらずドイツ軍の前進は9月後半のロシア軍の反撃により停止した。新たな前線はバルト海からルーマニア国境の線上に形成されており、前線上の主な都市は北から順にはリガ-イェーカブピルス-ダウガフピルス-バラーナヴィチ-ピンスク-ドゥブノ-テルノーピリが所在していた。前線にはベラルーシの森とピンスクの湿地帯が含まれていた。

中央同盟国の夏の攻勢であまりにも多くの損害を出し、遅すぎる撤退命令を出したスタフカの責任を追求する必要があったので、1915年8月21日、ニコライ2世はニコライ・ニコラエヴィチを更迭し、自身が全軍の指揮を取ることを決定した。

関連事項