パーシヴァル・ローウェル
パーシヴァル・ローウェル(Percival Lowell, 1855年3月13日 - 1916年11月12日)は、アメリカ合衆国ボストン生まれの天文学者であり、日本研究者。
パーシヴァル・ローウェル | |
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生誕 |
1855年3月13日 アメリカ合衆国・ボストン |
死没 | 1916年11月12日(61歳没) |
研究分野 | 天文学 |
主な業績 | 火星の「運河」を観測、惑星X(冥王星)の存在を予想 |
プロジェクト:人物伝 |
略歴
ボストンの大富豪の息子として生まれ、ハーバード大学で物理や数学を学んだ。もとは実業家であったが、数学の才能があり、火星に興味を持って天文学者に転じた。当時屈折望遠鏡の技術が発達した上に、火星の二つの衛星が発見されるなど火星観測熱が当時高まっていた流れもあった。私財を投じてローウェル天文台を建設、火星の研究に打ち込んだ。火星人の存在を唱え、1895年の「Mars」(「火星」)など火星に関する著書も多い。「火星」には、黒い小さな円同士を接続する幾何学的な運河を描いた観測結果が掲載されている。運河の一部は二重線(平行線)からなっていた。300近い図形と運河を識別していたが、火星探査機の観測によりほぼすべてが否定されている。
最大の業績は、最晩年の1916年に惑星Xの存在を計算により予想した事であり、1930年に、その予想に従って観測を続けていたクライド・トンボーにより冥王星が発見された。冥王星の名 "Pluto" には、ローウェルのイニシャルP.Lの意味もこめられている。
なお、彼の業績に対して天文学者のカール・セーガンは「最悪の図面屋」、SF作家のアーサー・C・クラークは「いったいどうしたらあんなものが見えたのだろう」と自著の中で酷評している。 一部の眼科医はローウェルは飛蚊症だったのではないかという仮説を述べている。 だが彼の建てたローウェル天文台はその後の惑星研究の中心地となった。アリゾナ州フラッグスタッフという天体観測に最適な場所を見出したのも評価されている。
日本との関係
1889年から1893年にかけて、明治期の日本を5回訪れ、通算約3年間滞在した。来日を決意させたのは大森貝塚を発見したエドワード・モースの日本についての講演だった。彼は日本において、小泉八雲、アーネスト・フェノロサ、ウィリアム・ビゲロー、バシル・ホール・チェンバレンと交流があった。神道の研究等日本に関する著書も多い。
彼が旅の途中で訪れた穴水町にローエル顕彰碑が置かれ、彼が訪問した5月9日にはローウェル祭を開き、天文観測会や講演会が行われている。
日本語を話せないローウェルの日本人観は「没個性」であり、「個性のなさ、自我の弱さ、集団を重んじる、仏教的、子供と老人にふさわしい、独自の思想を持たず輸入と模倣に徹する」と自身の西洋的価値観から断罪する一方で、欧米化し英語を操る日本人エリートたちを「ほとんど西洋人である」という理由から高く評価するといった矛盾と偏見に満ちたものであったが、西洋の読者には広く受け入れられた[注 1][1]。
主な著作書籍(翻訳)
- 『極東の魂』(公論社, 1977年01月 ISBN 4-7714-7710-8)
- 『NOTO - 能登・人に知られぬ日本の辺境』(十月社、1991年10月 ISBN 4-915665-19-4)
英文著作集
- 『パーシヴァル・ローエル著作集成』全5巻(Edition Synapse、2006年6月 ISBN 978-4-901481-48-9)[2]
脚注
注釈
- ^ 日本語を解するバジル・ホール・チェンバレンはこの説に批判的であり、ローウェルの『極東の魂』を読んで日本に興味を持ったラフカディオ・ハーンもこの没個性論には否定的だった。
出典
- ^ 涌井隆 (2009年3月1日). “パーシヴァル・ローウェルは日本人と火星人をどう見たか”. 国際シンポジウム「異文化としての日本」記念論文集. 2014年11月25日閲覧。
- ^ David Strauss: “パーシヴァル・ローエル著作および書簡集 全5巻+別冊”. コレクション・ジャパノロジスト. Edition Synapse. 2014年11月25日閲覧。
外部リンク
- Percival Lowellの作品 (インターフェイスは英語)- プロジェクト・グーテンベルク
- Percival Lawrence Lowellに関連する著作物 - インターネットアーカイブ