ムルターン
ムルターン(Multan、ウルドゥー語: ملتان)は、パキスタンのパンジャーブ州の都市である。ムルターン県の県都である。ムルタンと表記されることもある。人口380万人(1998年の国勢調査)でパキスタン第6の都市にあたる。インダス川支流のチャナーブ川の東に位置し、カラーチーから陸路で966 km,地理的にはだいたいパキスタンの中心部にあり,道路,鉄道,空路などの集まる交通の要衝である。
ムルターン ملتان Multan | |
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座標 : 北緯30度11分24秒 東経71度28分16秒 / 北緯30.19000度 東経71.47111度 | |
行政 | |
国 | パキスタン |
州 | パンジャーブ州 |
市 | ムルターン |
City Nazim | Mian Faisal Mukhtar |
地理 | |
面積 | |
市域 | 3,721 km2 (1,437 mi2) |
標高 | 710 m (2,329 ft) |
人口 | |
人口 | (2007年現在) |
市域 | 1,423,919人 |
その他 | |
等時帯 | パキスタン標準時 (UTC+5) |
市外局番 | 061 |
ムルターンは「ピール(スーフィーの聖者)と聖堂の街」として有名で,街にはバザール,モスク,聖堂や壮麗な墓廟がひしめいている。
歴史
ムルターンは、南アジアの中でも最古の都市のひとつである。サンスクリットで、Mūlasthānという言葉が現在の都市の名前の由来である。これまでの考古学調査からムルターンは、モヘンジョ・ダロあるいはハラッパーなどと同時期に興った都市の1つであると考えられている。古代インドの叙事詩『マハーバーラタ』では、Malāvaで登場した。
ムルターンを最初に征服した外国の勢力はアレクサンドロス3世であるといわれている。その後、ムルターンは、グプタ朝の領土の一部になった。712年、シンド人に引きつられる形でイスラーム勢力がムルターンに侵攻した。イスラーム勢力を率いたのは、ムハンマド・ビン・カースィム(en:Muhammad bin Qasim)であった。カースィムの侵攻により、ムルターンにもイスラームがもたらされることとなったが、ムルターンはそれでもなお、一独立勢力として維持してきた。しかし、1005年、ガズナ朝のマフムード(en:Mahmud of Ghazni)であった。マフムードは、ムルターンにあった太陽寺院や偶像の破壊を実施した。
ムルターンの中世は、スーフィズムの中心であったことが分かっている。その証は、現在のムルターンには数多くの聖者廟(ダルガー)が残されていることから明らかである。例えば、モンゴルの征服時代に、殺戮を止めるように説き伏せた聖者バハー・ウル・ハックのダルガー、「世界の柱」を意味するシャー・ルクネ・アーラム(建設は14世紀のトゥグルク朝時代、もともとはトゥグルク朝の皇帝ギャースッディーン・トゥグルクが自らの廟のために建設した)、1380年ごろに建設されたシャー・シャムス・タブレーズのダルガーなどである。
時代を経て、ムガル帝国の時代の200年間は、ムルターンは平和を享受した。1735年には、当時、ムルターンを支配していたナワーブ・アブドゥル・サマッド・ハーンの命令により、イドガー・モスクが建設され、1757年には、アリー・ムハンマド・ハーンによって、アリー・ムハンマド・モスクが建設された。現在、ムルターンに残る建物の多くがこの時代に建設されたものである。当時のムルターンは農業生産が向上しており、このような建設事業が可能となった。
その後、しばらくの間、ムルターンは、ナーディル・シャーの支配を受けたが、幸いにも破壊をまぬかれることができた。
ムルターンは、ムガール帝国の衰退を目撃することで、難しい時代を経験してきた。アフマド・シャー・アブダーリーが創設したアフガン人王朝のドゥッラーニー朝が衰退すると、ムルターンはパシュトゥーン人の支配を受けた。シク教徒は、パシュトゥーン人が支配するムルターン地方を攻撃し、パシュトゥーン人はムルターンの周辺に住むことを余儀なくされ、ムルターンはシク教徒が治めることとなった。しかし、シク教徒の支配は長く続くことはなかった。徐々にパンジャーブ地方にはイギリスが勢力を拡大していったのである。イギリスとシク教徒の間で戦闘が行われたが、最終的にはイギリスが支配することとなった。
1947年にパキスタンが独立すると、ムルターンはパンジャーブ州に所属することとなったが、植民地時代にはわずかに鉄道が建設されただけであり、独立当時のムルターンは、産業、病院、大学といった社会的なインフラストラクチャーの全てが欠如していた。これらのインフラストラクチャーは、独立後、徐々に整備され、経済的に発展を遂げるようになった。
交通
姉妹都市