斑鳩

奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺を中心とした地域

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斑鳩(いかるが)とは、奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺を中心とした地域。古くはとも表記された。

概要

地名の由来や正確な範囲については不明とされているが、法隆寺を中心とした矢田丘陵の南部・富雄川右岸(西側)地域を指して呼ばれることが多い。

用明天皇の皇子である厩戸皇子(聖徳太子)は、父の遺命により法隆寺を建立するとともに、推古天皇9年(602年)には斑鳩宮を造営した。同12年(605年)に聖徳太子は斑鳩宮に移り住み、その2年後には法隆寺(斑鳩寺)が完成した。ただし、この時に建てられた法隆寺は今日「若草伽藍」と呼ばれる仏教遺跡で、現在の法隆寺は7世紀後期から8世紀初頭に再建されたものとする説が有力である。また、法隆寺の近くにある中宮寺も、元々は聖徳太子あるいはその母で用明天皇の皇后であった[[穴穂部間人皇女 ]]が建立した尼寺(鵤尼寺)であったと言われている。斑鳩は大和川に近く、また河内飛鳥方面とも街道でつながった交通の要所であった。このため、聖徳太子の一族(上宮王家)は斑鳩周辺に拠点を構えたと考えられている。聖徳太子は斑鳩宮で没し、その子山背大兄王皇極天皇2年(646年)に蘇我入鹿によって攻め滅ぼされるまで、斑鳩は上宮王家の拠点として栄えた。その後も太子信仰の高まりとともに、多くの人々がこの地を訪れるようになった。

参考文献