山田城

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山田城(やまだじょう)は、栃木県矢板市大字山田小字城山にある山城平安末期の築城。天正13年(1585年)3月25日廃城。根小屋(根古屋)城とも呼ばれる。保存状態は良好。

北側より山田城を望む

歴史

築城

平安末期に山田八郎兼利によって築かれたとされる[1]。一方、文明長享ごろに、塩谷孝綱の城代・山田泰業による築城と推測とする見解[2]もある。ただし山田八郎の一族は文明・長享より前の応永年間に活動記録が見える。

山田八郎兼利説築城説によると、兼利が築城した山田城は、その子孫の山田八郎家が代々城主となったという。応永10年(1403年)8月には、山田八郎家が、中禅寺に法華経を寄贈するなど、山田八郎家は、塩谷氏の重臣として山田城を中心に繁栄した。その山田氏の主君である塩谷氏が、文明10年(1478年)正月18日に宇都宮氏より孝綱を養子に迎えると、その付家老としてやってきた山田筑後守泰業が城主となった。

この泰業の山田氏は、山田八郎兼利を祖とする山田氏とは異なり平貞能を祖とする[3]。一方、「那須記」に泰業の孫・辰業は塩谷朝業の子・山田藤右衛門尉業清の末とある。ただし塩谷氏の系図に山田業清は見えない。

また、城主でなくなった山田八郎系の山田氏は断絶したわけではなく、薄葉ヶ原の戦いでは塩谷氏の武将として辰業に続いて山田八郎安林の名があり存続していたと見られる。山田八郎の山田氏は家老か何かの待遇で山田筑後守の山田氏を補佐して残ったものと考えられている。

築城当初の山田城は、三方を山に囲まれて奥まった山間に築かれた馬蹄形の館城であったと考えられ、山城の部分は、戦国期に入ってから築かれていったものと考えられている[4]。なお、『矢板市史』の年表には、応永21年(1414年)に山田城築城とあるが、この根拠はいかなるものか不明であり、また、この時に山田城が築城されたとは考え難い。[要出典]エラー: タグの中に無用な文字が含まれていないか、{{要出典範囲}}と{{要出典}}を間違えていないかを確認してください。貼り付け年月は「date=yyyy年m月」、チップテキストに表示する文字列は「title=文字列」と指定してください。

薄葉ヶ原合戦と落城

 
山田城主郭。杉木に覆われているが、遺構は虎口の一部を除き、ほぼ完全に残っている

天正12年(1584年)8月初め、山田辰業(泰業の孫)は主命により那須氏領の薄葉、平沢を攻めた(「那須記」)。これに対して、那須方の福原資孝資広父子が出陣し、山田勢は退却するが、この時、深い遺恨を残すことになった。

そして翌年の3月、薄葉ヶ原合戦が勃発。宇都宮勢二千五百余騎、那須勢一千余騎が薄葉ヶ原で激突し、この戦いで先鋒の総大将として出陣した辰業は、3月25日、那須勢の芦野大和守の陣に突撃し、神田次郎に討たれる。その後、那須勢は、薄葉ヶ原に接する山田の地に攻め入り、山田城を落城させ、山田城はそのまま廃城となった。この時、城には家老の山田新左衛門と辰業の正室菊の前がいて城を脱出したものの、新左衛門は菊の前を逃がすために討死し、菊の前も11人の侍女たちとともに太鼓岩と呼ばれる崖の上から下を流れる箒川に向かって投身、自害し、山田一族は城とともに滅亡した。

廃城後の山田城

 
山田城主郭南側の空堀

矢板市内の城跡の中で、唯一落城により廃城となった山田城の主郭にはのちに愛宕神社が奉られた。神社と言っても祠があったものであったが、現在は、近隣の神社に合祀され残っていない。新左衛門が討たれた場所は「新左衛門原」と呼ばれ、菊の前が11人の侍女とともに投身自害した場所は十二御前と呼ばれ、ともに字名として残っているが、これを供養していた集落が現在は廃村となってしまい、伝承を伝える人が少なくなってしまったため、地元の人でも、その場所や伝承を知る者は少ない。山田氏の菩提寺であった与楽山千手院円満寺は、明治の廃仏毀釈により廃寺となってしまったが、その跡は現在も残り墓地として使用され、その真ん中には、円満寺の住職と山田一族のものであろう墓が残っている[5]

また、江戸後期に中原寛斎によって書かれたと推定される「山田環往来記」は次のように記す。

  • 「西山に雷神を祀る祠あり。此所は往昔山田村と土屋村の領主山田筑後守辰業殿の居城跡なり。故に四方掻掲(そうけい)の濠ありて恰も(あたかも)築山の如し。濠は百尋雷零の井の如し。仍(より)て猪鹿等も近より難く、飛鳥も亦翔翺(しょうこう)し難き要害の地なり。時到りて鉄城も山野に変ず。山田筑後守辰業の一族は、天正の乱に基地居城を失ふて離散せしこそ残念なり。」

*上記の天正の乱とは「薄葉ヶ原合戦」のことである。

根小屋(根古屋)城の名称について

根小屋(根古屋)というのは、この地方では城跡に多い地名で根小屋城と呼ばれる城は多い。山田城も城山以外の部分は内根小屋などの字名で呼ばれている。ただ、このために塩谷孝綱家臣として記される根小屋城代を山田城の城代とする見解が存在するが、この根小屋城代は、川崎城の南にあった堀江山城のことであり、山田城のことではない。城主も岡本大隈、岡本備前、岡本清五郎とあり、岡本大隈とは、天正7年(1579年)正月28日付の書状が残る岡本大隈守道家のことであり、この時代、山田城主は泰業の孫の辰業であり、記述と合わないこともそれを証明している。 [要出典]エラー: タグの貼り付け年月を「date=yyyy年m月」形式で記入してください。間違えて「date=」を「data=」等と記入していないかも確認してください。

脚注

  1. ^ 『塩谷朝業』(矢板市刊行物)
  2. ^ 栃木県教育委員会事務局文化課編 『栃木県の中世城館跡』栃木県教育委員会、1982年。
  3. ^ 『矢板市史』『塩谷朝業』(矢板市刊行物)
  4. ^ 『塩谷朝業』(矢板市刊行物)
  5. ^ 『塩谷朝業』(矢板市刊行物)

関連項目