削除された内容 追加された内容
タグ: 曖昧さ回避ページへのリンク
79行目:
* 大奥女中らが表御殿の様子がわからず出口を見失って大事に至らないように、松平信綱は畳一畳分を道敷として裏返しに敷かせて退路の目印(避難誘導路)とし、そのあとに大奥御殿に入って「将軍家(家綱)は西の丸に渡御されたゆえ、諸道具は捨て置いて裏返した畳の通りに退出されよ」と下知して大奥女中を無事に避難させた。
* 多数の民衆が避難する際、下に車輪のついた[[長持]]「車長持」で家財道具を運び出そうとしたことで交通渋滞が発生、死者数の増大の一因となったことから、以後、車長持の製造販売が[[三都]]で禁止された。
* この大火の際、[[小伝馬町]]の[[伝馬町牢屋敷|]]には百五十から三百人ほどの[[囚人]]が収監されていたが、牢屋の炎上も時間の問題となった。牢屋の[[鍵]]は[[町奉行]]が管理しており、[[奉行所]]から何の通達もなかったことから、囚人たちが焼け死ぬのは必定であった。牢屋奉行の[[石出帯刀]]吉深は焼死しそうを免れい囚人たちをれみ、独断で牢屋の鍵を壊し、囚人たちを集めて「この大火から逃げおおせが収まったら必ず戻ってこい。もし、この機に乗じて雲隠れすよう者がいれば、地の果てまでも追い詰めて、その者のみならず一族郎党まで成敗する。だが、素直申し伝え戻れば、[[死罪]]の者自分の命に代えても助けてみせよう」と申し渡し、囚人たちを一時的に解き放つ「切り放ち」を独断で実行逃がした。人たちは涙を流して吉深に感謝し、結果的には約束通り後日、全員が牢に戻ってきた。吉深は「罪人とえ囚人と大変いえ、彼らは立派義に報いてみせた。このような義理い者たち」と思い「死罪も含めた罪一等減ずるよ、みすみす殺してしまのは国の損失である」と幕閣に囚人たち老中への進言助命嘆願受けし、幕府は減も吉深の意見を容れて囚人たちのを減免した。以後この緊急時に囚人たちを一時的に釈放する'''切り放ち'''」が制度化されるきっかけ、江戸時代もなっ計15回の切り放ちが行われた。
* 当時74歳だった儒学者・[[林羅山]]は、この大火で自邸と書庫が焼失して衝撃を受け4日後に死去した。
* 当時、江戸に参府していたオランダ商館長([[カピタン]])[[ツァハリアス・ヴァグナー]]一行も大火に遭遇した。[[1979年]]5月10日の[[テレビ番組]]『[[歴史への招待]]』で「八百八町炎上す」と題して江戸の火事を放送した翌日、視聴者からこの一行の1人が描いたとみられる「1657年、江戸の大火」と題する水彩画が提供された<ref>『歴史への招待8』、205-206,233頁</ref>。