「明暦の大火」の版間の差分
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* 大奥女中らが表御殿の様子がわからず出口を見失って大事に至らないように、松平信綱は畳一畳分を道敷として裏返しに敷かせて退路の目印(避難誘導路)とし、そのあとに大奥御殿に入って「将軍家(家綱)は西の丸に渡御されたゆえ、諸道具は捨て置いて裏返した畳の通りに退出されよ」と下知して大奥女中を無事に避難させた。
* 多数の民衆が避難する際、下に車輪のついた[[長持]]「車長持」で家財道具を運び出そうとしたことで交通渋滞が発生、死者数の増大の一因となったことから、以後、車長持の製造販売が[[三都]]で禁止された。
* この大火の際、[[小伝馬町]]の[[伝馬町牢屋敷
* 当時74歳だった儒学者・[[林羅山]]は、この大火で自邸と書庫が焼失して衝撃を受け4日後に死去した。
* 当時、江戸に参府していたオランダ商館長([[カピタン]])[[ツァハリアス・ヴァグナー]]一行も大火に遭遇した。[[1979年]]5月10日の[[テレビ番組]]『[[歴史への招待]]』で「八百八町炎上す」と題して江戸の火事を放送した翌日、視聴者からこの一行の1人が描いたとみられる「1657年、江戸の大火」と題する水彩画が提供された<ref>『歴史への招待8』、205-206,233頁</ref>。
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