「後冷泉天皇」の版間の差分
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== 略歴 ==
* 万寿2年(1025年)8月3日、誕生。2日後に生母の東宮妃嬉子が薨去。上東門院の庇護下に入る。
* [[長元]]9年([[1036年]])2月22日、[[親王宣下]]。
* [[長暦]]元年(1037年)
** 7月2日、元服、三品に叙される。
** 8月17日、[[皇太子]]となる。後朱雀天皇即位から経った時間は丸一年(その間に敦康親王王女嫄子女王が敦康の継母上東門院の承認のもと、先代から続く関白藤原頼通の養女として立后)。
* [[寛徳]]2年(1045年)1月16日、病床の先帝([[後朱雀天皇]])から譲位。
** 4月8日、[[即位]]。
* 治暦4年(1068年)4月19日、在位のまま[[崩御]]。宝算44。
治世下では、[[荘園 (日本)|荘園]]の増加によって国家財政が危機的状態にあり、その整理が必要とされていた。それら荘園の主たる領主が[[藤原頼通]]ら権門であった。天皇は即位早々の[[寛徳]]2年、及び[[天喜]]3年([[1055年]])に[[荘園整理令]]に着手するが、結果的には[[権門]]擁護策に終わる(増加の抑制の成果については肯定的な見方もあり、性質上は延久の荘園整理令とさして変わらないとみる)。
頼通の娘[[藤原寛子 (藤原頼通女)|寛子]]を[[皇后]]とした。頼通は一人娘の寛子に皇子誕生の望みをかけ、その暁には皇太弟尊仁親王(後三条天皇)と交代させようとして皇太弟を冷遇したが、遂に皇子は生まれなかった。後冷泉天皇の崩御により、異母弟で[[藤原氏]]を直接の[[外戚]]としない[[後三条天皇]]が[[即位]]することになる。
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* [[皇后]]:[[藤原寛子 (藤原頼通女)|藤原寛子]](1036年 - 1127年) - [[関白]][[藤原頼通]]長女
* 皇后:[[藤原歓子]](1021年 - 1102年) - 関白[[藤原教通]]三女
** 皇子(1049年、死産もしくは即日薨去)
* 安楽寺別当の増守<ref group="注釈">『公卿補任』では増秀。</ref>の娘 - [[菅原氏]]。後に[[藤原師信]]室となり[[藤原経忠]](中納言)を産む<ref group="注釈">坊門家や水無瀬家など多数の堂上家の祖。</ref>。
** [[高階為行]](1059年 - 1107年、養子に出され[[高階為家]]の次男として育つ)
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後冷泉天皇は'''三后並立'''の唯一の例である。後の[[鳥羽天皇]]や[[二条天皇]]、[[後堀河天皇]]にも中宮・皇后となった后妃が3人いたが、同時期に3人の后が並立したのは後冷泉天皇が唯一である。
初めに立后されたのは東宮時代からの妃であった章子(父方、母方のいずれから見てもいとこ)で、父母をうしなった章子の後見人をつとめる上東門院の意志という。次いで関白頼通の娘の寛子が立后されたが、寛子立后にあたり、通常ならば先立の中宮である章子を皇后宮、寛子を中宮とするところを、章子の希望で章子は中宮のまま留め置かれ、寛子が皇后宮とされた。その後、崩御の直前に頼通の致仕により教通が関白となり、天皇の意志で教通の娘の歓子が立后されたが、歓子立后にあたっては中宮章子が皇太后、皇后宮寛子が中宮とされ、歓子は皇后宮とされた。その後、後三条天皇の后の馨子内親王の立后にあたって、章子が太皇太后、寛子が皇太后、歓子は皇后宮のままとされ、新立の馨子が中宮となり、通例に戻された。
== 在位中の元号 ==
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