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Sasame338 (会話 | 投稿記録)
 
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この頃、藩内農村の荒廃や蝦夷地でのロシア船出没など、内憂外患の危機感が強まっていた一方、水戸藩は深刻な財政難に陥っており、館員らは編纂作業に留まることなく、農政改革や対ロシア外交など、具体的な藩内外の諸問題の改革を目指した。翠軒の弟子には[[小宮山楓軒]]、[[青山延于]]らがいる。翠軒の弟子の[[藤田幽谷]]は、[[寛政]]3年([[1791年]])に後期水戸学の草分けとされる「正名論」を著して後、9年に藩主治保に上呈した意見書が藩政を批判する過激な内容として罰を受け、編修の職を免ぜられて左遷された。この頃から、大日本史編纂の方針を巡り、翠軒と幽谷は対立を深める<ref name=":0" />。翠軒は幽谷を破門にするが、[[享和]]3年([[1803年]])、幽谷は逆に翠軒一派を致仕させ、[[文化 (元号)|文化]]4年([[1807年]])総裁に就任した。幽谷の門下、[[会沢正志斎]]、[[藤田東湖]]、[[豊田天功]]らが、その後の水戸学派の中心となる<ref name=":0" />。
 
[[文政]]7年(1824年)水戸藩内の大津村にて、イギリスの捕鯨船員12人が水や食料を求め上陸するという事件が起こる([[大津浜事件]])。幕府の対応は捕鯨船員の要求をそのまま受け入れるのものであったため、幽谷派はこの対応を弱腰と捉え、水戸藩で攘夷思想が広まることとなった。事件の翌年、[[会沢正志斎]]が尊王攘夷の思想を理論的に体系化した「新論」を著す。「新論」は幕末の志士に多大な影響を与えた。
 
[[天保]]8年([[1837年]])、第9代藩主の[[徳川斉昭]]は、[[藩校]]としての[[弘道館]]を設立。総裁の[[会沢正志斎]]を教授頭取とした。この弘道館の教育理念を示したのが『弘道館記』であり、署名は徳川斉昭になっているが、実際の起草者は幽谷の子・[[藤田東湖]]であり、そこには「[[尊皇攘夷]]」の語がはじめて用いられた。