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後朱雀天皇の妃となった妹の嬉子は、東宮に立てられた親仁親王を生んですぐに死去していたこともあり、別に[[後三条天皇|尊仁親王]]を生んだ[[禎子内親王]](三条天皇の第三皇女。道長の外孫で頼通の姪だが、疎遠であった)が皇后に立てられていた。頼通が皇子誕生を期待した嫄子は、皇女を生んだのみで死去してしまった。弟の教通も対抗して娘・生子を入内させるが皇子を生むことはなかった。
 
[[寛徳]]2年([[1045年]])、病に倒れた後朱雀天皇から、親仁親王の次代の東宮に望まれた尊仁親王は、道長の曾孫ではあるものの[[藤原氏]]を外戚としない親王であった。そこで親仁親王に男子が誕生した際に皇位継承を巡って紛糾するとの建て前で、頼通は東宮を立てるのは時期尚早であると反対した。これに対し、頼通とは反りが合わない異母弟の[[大納言|権大納言]][[藤原能信|能信]]([[源明子]]の子)からの、尊仁親王の立太子を懸命な懇願を受けた天皇は決意して、尊仁親王を東宮に冊立するとの遺命を残して崩御した(『[[愚管抄]]』『[[今鏡]]』)。
 
うして親仁親王の即位([[後冷泉天皇]])に伴い、異母弟宮の尊仁親王が東宮に立てられた。だが頼通は藤原氏との縁の薄い尊仁親王には協力せず<ref>頼通は東宮に代々受け継がれてきた「壺切の剣」について、藤原家の娘所生の東宮の持ち物であるとして、尊仁親王には渡さなかった(『[[江談抄]]』)。</ref>、[[永承]]5年([[1050年]])に一人娘の[[藤原寛子 (藤原頼通女)|寛子]]を入内させ[[皇后]]となし皇子誕生に望みを繋いだが、ここでも皇子に恵まれることは無かった。
 
[[ファイル:Byodoin Phoenix Hall Uji 2009.jpg|thumb|250px|平等院鳳凰堂]]