「藤原頼通」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
体裁修整 |
→道長没後: 記述の修正 タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集 |
||
49行目:
後朱雀天皇の妃となった妹の嬉子は、東宮に立てられた親仁親王を生んですぐに死去していたこともあり、別に[[後三条天皇|尊仁親王]]を生んだ[[禎子内親王]](三条天皇の第三皇女。道長の外孫で頼通の姪だが、疎遠であった)が皇后に立てられていた。頼通が皇子誕生を期待した嫄子は、皇女を生んだのみで死去してしまった。弟の教通も対抗して娘・生子を入内させるが皇子を生むことはなかった。
[[寛徳]]2年([[1045年]])、病に倒れた後朱雀天皇から、親仁親王の次代の東宮に望まれた尊仁親王
こ
[[ファイル:Byodoin Phoenix Hall Uji 2009.jpg|thumb|250px|平等院鳳凰堂]]
|