削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
52行目:
[[明治]]に代わって数年は切腹が刑罰として引き継がれていき、[[1870年]](明治3年)に[[庚午事変]]の首謀者数名が[[徳島県]][[徳島市]][[住吉 (徳島市)|住吉]]の[[蓮花寺 (徳島市)|蓮花寺]](1丁目)にて切腹させられている。そして、死刑執行方法としての切腹廃止の前年に当たる[[1872年]](明治5年)においては、[[鞠山騒動]]により[[敦賀県]]の裁判で自裁が下され[[4月3日]]に4人が自裁し<ref>{{Cite journal|author=福井県敦賀郡|authorlink=敦賀郡|title=敦賀郡誌 第五編 人物|pages=1126-1127|date=1915|language=日本語|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/950917/597|doi=10.11501/950917|accessdate=2021-04-22}}</ref>、[[京都市]][[伏見区]]淀納所にある[[水茶屋]]で口論となり、一旦収まったものの、相手が[[挨拶]]せずに立ち去ったため激高し[[松原貞芳]]([[京都府]][[士族]])を斬殺し自首した[[服部盛能]](京都府士族)が、[[8月13日]]に切腹した(本来であれば[[斬首刑|斬罪]]であるが、加害者が士族であり[[自首]]したため、自裁となった。)<ref>{{Cite report|author=京都府|authorlink=京都府|date=|title=京都府史料 一三 政治部 刑賞類2(明治元‐7年)(164-168コマ)|url=https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/result?DEF_XSL=detail&IS_KIND=detail&DB_ID=G9100001EXTERNAL&GRP_ID=G9100001&IS_TAG_S16=eadid&IS_KEY_S16=M2007041211444951486&IS_LGC_S16=AND&IS_EXTSCH=F2009121017025600406%2BF2005022412244001427%2BF2005031812272303110%2BF2007041211443951473&IS_ORG_ID=M2007041211444951486&IS_STYLE=default&IS_SORT_FLD=sort.tror%2Csort.refc&IS_SORT_KND=asc|format=JPEG,PDF|accessdate=2021-07-17}}</ref><ref name="明治前期の監獄">{{Cite journal|和書|author=児玉圭司 |title=明治前期の監獄における規律の導入と展開 |journal=法制史研究 |issn=0441-2508 |publisher=法制史学会 |year=2015 |volume=64 |pages=1-57,en3 |naid=130008000861 |doi=10.5955/jalha.64.1 |url=https://doi.org/10.5955/jalha.64.1 |accessdate=2021-08-20}}</ref><ref name="M6 seihunenpyo" >{{Cite web|publisher=[[正院]][[統計局|第五科]]|title=明治六年政表>司法処刑ノ部>明治六年司法省及ヒ各府県処刑人員(コマ番号12)|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2937948/12|date=1876|accessdate=2021-07-17}}</ref>。'''[[11月4日]]には[[本多氏|加賀本多家]]旧臣の敵討ち(最後の仇討ち<!--明治の忠臣蔵--><!--「明治忠臣蔵」は平成の1995年に作家の[[中村彰彦]]が書いた小説のタイトルであり、明治当時の史料に(巷間で言う者があったにせよ)載っている用語ではない。-->と言われている)により[[石川県]]刑獄寮の裁判で自裁の判決が下され旧臣12人が自裁しており、日本法制史上最後の切腹刑となった'''<ref name="本多政均">{{Cite web|author=石川県立図書館|authorlink=石川県立図書館|url=https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000184677|title=「明治忠臣蔵」「明治最後の仇討ち」と言われた、本多政均(ほんだまさちか)暗殺について載っている簡単な資料はないか。|date=2015-12-01|website=レファレンス協同データベース|publisher=国立国会図書館|accessdate=2021-04-21}}</ref><ref name="弁護士の誕生">{{Cite journal|和書|author=谷正之 |title=弁護士の誕生とその背景(3) : 明治時代前期の刑事法制と刑事裁判 |journal=松山大学論集 |issn=09163298 |publisher=松山大学総合研究所 |year=2009 |month=apr |volume=21 |issue=1 |pages=279-361 |naid=110007579200 |url=http://id.nii.ac.jp/1249/00001460/ |accessdate=2021-08-20}}</ref>。
 
死刑執行方法としての切腹は、[[1873年]]([[明治]]6年)年[[6月13日]]に制定された[[改定律例]]により、切腹を含めた閏刑(生刑に代えて課せられる寛大な刑であり、[[士族]]は、[[謹慎]]・[[閉門]]・禁錮・辺戍[辺境の守備]・自裁だった。)が[[禁錮刑]]に統一する形で廃止された<ref name="弁護士の誕生" />。以後[[日本における死刑]]では、旧刑法が施行するまで一般刑法犯に対する死刑執行方法が[[獄門|梟首]]・[[斬首]]・絞首刑(梟首は[[1879年]]〈明治12年〉に廃止)の3つが並存する形となったが、[[1882年]](明治15年)に[[旧刑法]]が施行された後は[[絞首刑]]が用いられている。(但し、[[旧刑法]]施行後の[[1886年]]〈明治19年〉12月に[[日本における死刑囚の一覧_(-1969)#1880年代|「青森の亭主殺し」事件の加害者である小山内スミと小野長之助]]の公開斬首刑が[[青森県]][[弘前市]]の[[青森刑務所|青森監獄]]前で行われた。この時2人の斬首刑に兼平[[巡査]]が斬首刑の執行人として、死刑執行者付添役に森矯([[東奥義塾高等学校|東奥義塾]]教師)がそれぞれの任を果したと言わている。しかし、このことが事実である場合、この死刑執行は事実上の斬首刑の最後であると共に、官憲による日本国内における一般刑法犯に対する最後の非合法〈当時の旧刑法では、非公開の絞首刑のみ。〉の死刑執行かつ[[公開処刑|公開斬首刑]]であると言わざる得なくなる<ref>{{Cite|author=手塚 豊|authorlink=手塚豊|title=刑罰と国家権力 国家的刑罰権と非国家的刑罰権――明治前期の場合に関する一未定稿|publisher=[[法制史学会]]|date=1960-04|pages=182-185|doi=10.11501/2527269|ncid=BN0366777X|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2527269}}</ref>。)
 
しかしながら、切腹を自殺の方法として用いる例は、明治時代以降も軍人等の間に見られ、切腹を名誉ある自決とする思想は残った。<!--[[明治維新]]によって武士がいなくなっても、[[戦陣訓]]の本訓其ノ二 第八「名ヲ惜シム」にある「恥ヲ知ル者ハ強シ。常ニ郷党家門ノ面目ヲ思ヒ、愈々奮励シテ其ノ期待ニ答フベシ。生キテ虜囚ノ辱ヲ受ケズ、死シテ罪禍ノ汚名ヲ残スコト勿レ」などの思想が、捕虜よりも切腹など自害を選ぶように決められた。-->