「大友亀太郎」の版間の差分
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慶応2年([[1867年]])には大友亀太郎の役宅が、御手作場に建設された。この土地は後に[[札幌村郷土記念館]]として札幌市より史跡の指定を受ける。さらに、同年に建設工事がおこなわれていた大友堀が竣工。用排水路のほか、しばらくして運河の機能も担うこととなった大友堀は、当時の金額にして総工費およそ3千両、工事に従事した人数は450名に上った。また、御手作場では、開拓の経営に費やされる経費や見積書を作成し、出張所及び[[開拓使]]に提出していた。御手作場における経営の方針や農民への扶助内容ほかを記したこれらの文書には、入植するとみられる農民や田畑の開発計画、並びにそれらによって生み出される収支を、1867年より30年分も記した計画案(蝦夷地石狩領荒地開発田畑御収納方三十ヶ年組立書上帳)、御手作場で働いている農民とその家族の個人情報を記した文書(戸数・人別書上帳)などが挙げられる。こうした古文書もまた、後になって神奈川県在住の住民より札幌市へ寄贈され、市の[[有形文化財]]として保存されている。
同年に亀太郎が中心となって開墾を行ったこの現東区の土地周辺は、「札幌元村」として名称を定められた。同時に北海道外からの入植者も増加していき、土地の開発は拡大の一途を辿った。また、このころ役宅の近くにある[[本龍寺 (札幌市)|本龍寺]]の境内に[[妙見菩薩|妙見堂]]を建立している。[[明治]]元年([[1869年]])には北海道開拓使が開設。書籍「大友亀太郎履歴書綴」によると、同年に亀太郎は兵部省出張所石狩国開墾掛、その後開拓使使掌に任命されたという。土地の開拓はこの年に開拓使へと引き継いだが、翌[[1870年]]に亀太郎は札幌を去り故郷である神奈川県小田原市へと帰省した。背景には体制の変わっあた政府との意見の相違があったことが挙げられている。[[1871年]]には札幌新村と合併することになった札幌元村が、新たに「札幌村」と名付けられた。大小多くの河川や肥沃な土地に恵まれた地域一帯では、[[札幌黄]]を生み出した[[タマネギ|玉葱]]耕作など、新しい形態の農業が行われた。その一方、亀太郎は故郷で神奈川県議会の議員選挙へ出馬、[[1881年]](明治14年)に当選して地域の発展に努めた後、[[1897年]](明治30年)にその生涯を閉じた。
=== 没後 ===
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