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| 霊名 =
| 墓所 = [[東京都]][[渋谷区]][[広尾 (渋谷区)|広尾]]の[[東北寺]]
| 官位 = [[従五位|従五位下]][[豊前国#江戸時代|豊前守]]、[[正三位]]
| 幕府 =
| 主君 = [[明治天皇]]
| 藩 = [[越後国|越後]][[村上藩]]主(藩知事)
| 氏族 = [[岡部氏 (藤原南家)|岡部氏]]→[[内藤家 (信成系)]]
| 父母 = [[]]:[[岡部長寛]]、[[]]:不詳<br/>[[養父]]:''[[内藤信親|内藤信思]]''
| 兄弟 = '''信美'''、[[岡部長興]]、[[朝比奈長融]]、簾子、鎮姫、[[岡部長道]]室
| 妻 = [[正室]]:[[松平忠精]]の娘・'''珓子'''
| 子 = 璦子<br/>[[養子]]:'''''[[内藤信任 (明治時代)|信任]]'''''
| 特記事項 =
}}
'''内藤 信美'''(ないとう のぶとみ)は、[[江戸時代]]後期の[[越後国]][[村上藩]]の第9代(最後藩主。[[官位]]は[[従五位|従五位下]][[豊前国#江戸時代|豊前守]]。のち[[正三位]]。
 
== 略歴 ==
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[[慶応]]4年([[1868年]])7月11日に先代藩主・[[内藤信民]]が自害すると、村上藩は大混乱となり、8月11日には村上城も新政府軍によって落城した。それでも信民の遺志を継いだ家老の[[鳥居三十郎]]が抗戦したが、鳥居も9月末には降伏した。その後、7代藩主であった[[内藤信親|内藤信思]]は長美を養嗣子として「内藤信美」と名乗らせ、[[明治]]2年([[1869年]])2月3日に信民の跡を継がせた。
 
明治2年([[1869年]])6月24日、[[版籍奉還]]により[[知藩事|藩知事]]となる。藩内で版籍奉還への反発が強く、事就任が遅れた。同年6月28日、従五位下・豊前守に叙任する。同年11月9日、戊辰戦争の影響が収まらず、藩内の対立は続き、信思を政務の補佐に迎える。明治3年([[1870年]])6月9日、藩内の対立により、政府に進退伺を提出する。明治4年([[1871年]])7月15日、[[廃藩置県]]により罷免されて、[[東京]]に移った。明治12年(1879年)10月、隠居して長女と結婚した婿養子[[内藤信任|信任]]に家督を譲った。その後、内藤家を去って岡部家に戻ったため、信美の子孫は岡部姓に戻ったという。
 
[[大正]]14年([[1925年]])正月20日、69歳で死去した。墓所は[[東京都]][[渋谷区]][[広尾 (渋谷区)|広尾]]の[[東北寺]]。
 
== 系譜 ==
*父:[[岡部長寛]](1809-1887) 1887年)
*母:不詳
*養父:[[内藤信親|内藤信思]](1813-1874) 1874年)
*正室:珓子 - [[松平忠精]]娘
*生母不明の子女
**長女:璦子 - [[酒井忠篤 (庄内藩主)|酒井忠篤]]養女、[[内藤信任 (明治時代)|内藤信任]]夫人
 
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{{村上藩主|内藤氏|9代|1868年 - 1871年}}
{{S-other|当主}}
{{succession box
| title = [[村上藩]][[内藤家 (信成系)|内藤家]]
| years = 1869年 - 1879年
| before = [[内藤信民]]
| after = [[内藤信任]]
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{{村上藩主|内藤|9代|18681869年 - 1871年}}
 
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