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明治21年([[1888年]])に[[枢密院 (日本)|枢密顧問官]]、明治23年([[1890年]])に[[貴族院 (日本)|貴族院]]副議長、明治25年([[1892年]])に[[枢密院 (日本)|枢密院]]副議長を歴任した。
明治31年(1898年)、[[松浦詮|松浦詮(心月庵)]]が在京の[[華族]]、知名士等と設立した輪番茶事グループ「[[和敬会]]」の会員となる。会員は、青地幾次郎(湛海)・[[石黒忠悳|石黒忠悳(况翁)]]・[[伊藤雋吉|伊藤雋吉(宗幽)]]・[[伊東祐麿|伊東祐麿(玄遠)]]・岩見鑑造(葎叟)・[[岡崎惟素|岡崎惟素(淵冲)]]・金澤三右衛門(蒼夫)・[[戸塚文海|戸塚文海(市隠)]]・[[東胤城|東胤城(素雲)]]・[[久松勝成|久松勝成(忍叟)]]・松浦恒(無塵)・[[三田葆光]](櫨園)・[[三井高弘|三井高弘(松籟)]]・[[安田善次郎|安田善次郎(松翁)]]の以上16人(後に[[益田孝|益田孝(鈍翁)]]、[[高橋義雄 (茶人)|高橋義雄(箒庵)]]が入会)で、世に「[[十六羅漢]]」と呼ばれた。
墓所は[[中目黒]]の[[長泉院 (目黒区)|長泉院]]。
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