削除された内容 追加された内容
84行目:
また、同時代の[[真言宗]]には中国に渡って直接「具足戒」を伝えた人物もあり、後には『[[正法律]]』を提唱した[[慈雲]]尊者や、『[[如法真言律]]』を提唱して、生涯において三十数万人に正しい[[灌頂]]と[[戒律]]を授けた[[浄厳]]覚彦が活躍した。そして、[[天台宗]]でも改革が行われ、当時の[[中国密教]]を[[長崎]]の[[出島]]において中国僧から学び、その体系的な戒律を天台宗に初めて伝えて、授戒の本尊となる「准提仏母法」([[准胝観音]]法)を尾張や江戸で広めた[[豪潮]]律師などが知られる。
 
=== 近現代 ===
近代([[明治時代]])に至り、「'''[[政教一致]]'''」や「'''寺院民営化'''」、「'''脱亜入欧'''」の立場から、日本では<!--[[廃仏毀釈]]の影響下のなかで、[[富国強兵]]の政策を進めるために-->[[明治政府]]が[[明治5年]][[4月25日]]公布の[[太政官布告]]第133号「'''[{{NDLDC|788366/7}} 僧侶肉食妻帯蓄髪等差許ノ事]'''」を布告、僧侶の妻帯([[女犯]])・[[肉食]]・蓄髪・法要以外での平服着用等を公的に許可した。こうして僧職者に対する国法による他律的縛りはなくなり、本来の[[得度]]の[[意義]]や[[制度]]も失われて形骸化した儀式のみが残り、僧伽の[[原義]]とは全く反対の意味をもつ[[職業]]化したり[[世襲]]化した者が僧侶として公然と存在することができるようになった。そしてそのような僧侶が宗団を運営しているのが現況である。
 
なお、戦前に戒律・僧伽復興運動をした人物としては、[[真言宗]]の[[釈雲照]]、更には、その甥で[[スリランカ]]に留学し、日本人初の[[上座部仏教]]徒となって日本で「釈尊正風会」を組織した[[釈興然]]がいる。いわゆる特に持戒に厳しかったことで知られ、日本人初のチベット探検者でもあった[[黄檗宗]]の[[河口慧海]]は、国内外の僧伽の形骸化を批判し、僧籍を返還して「[[在家]]仏教」(ウパーサカ仏教)を提唱するに至った。
 
また、戦後は'''「[[政教分離]]の原則」'''に基づき、先の[[太政官布告]]の内容は全て破棄されたので、近年では、『[[日本テーラワーダ仏教協会]]』のように、[[上座部仏教]]も輸入・移植され、上座部の仏教徒として具足戒を授けられて、その僧伽の一員である比丘や比丘尼となる日本人も少数ながら出てきている。また、『[[龍蔵院デプン・ゴマン学堂日本別院]]』のように、[[チベット仏教]]系の僧院も築かれて、その僧伽の構成員である比丘や比丘尼もいる。更には、[[台湾]][[華僑]]らによる中国仏教系の『[[日本佛光山]]』<ref group="注">「日本佛光山」の各寺院や、「東京佛光山寺」における専門学校など多数が存在する。</ref>等の寺院もあり、その僧伽の構成員である比丘や比丘尼も日本に滞在している。このように、現在は[[上座部仏教系、大乗仏教系、]]や[[チベット仏教]]系の全ての僧伽が日本に存在し、それらの僧の指導に基づく各種の正式な[[戒律]]を学ぶことができる。また、事実として既成の[[伝統仏教]]を離れ、[[上座部仏教]][[中国仏教]]・[[中国密教]]、[[チベット]]に基づく日本人の正式な[[受戒者]]の[[僧侶]]や[[仏教徒]]が、[[釈尊]]以来の流れである正統な戒律を新たに受け継ぎ真摯に活動している。
 
こうして[[日本仏教]]においては、平安時代の[[最澄]]以降、戒律([[具足戒]]:[[波羅提木叉]])の戒脈や、それを基にした僧伽の伝統は、基本的に途絶えており、具足戒を受持する出家者・修行者は、他国の僧伽で受戒したごく少数者を除いて、現代の日本仏教各宗派には存在しない。それゆえ日本における既成の伝統宗派に僧伽(サンガ)は存在しない。