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|rulers=山田八郎家<br>山田筑後守家
|reject_y=[[文禄]]4年([[1595年]])[[2月8日_(旧暦)|2月8日]]<br/>
|remains=[[曲輪]]、[[堀切]]
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|地図= Japan Tochigi
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}}
 
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築城当初の山田城は、三方を山に囲まれて奥まった山間に築かれた馬蹄形の館城であったと考えられ、山城の部分は、[[戦国時代 (日本)|戦国期]]に入ってから築かれていったものと考えられている。
 
=== 応永21年築城説について ===
矢板市公式ホームページ<ref>[https://www.city.yaita.tochigi.jp/soshiki/hishokouhou/history-s33.html 「矢板市の歴史年表1」]矢板市公式HP</ref>や『矢板市史』の年表には、[[応永]]21年([[1414年]])に山田城築城とあるが、この根拠はいかなるものか不明である。また、他の矢板市刊行物の年表には全く出てこず、同じ矢板市史の山田城の記述とすら全く異なっている。このため、矢板市史の年表では、那須氏の歴史と併記して表記されているため、この山田城築城は、那須領片田の山田城の築城と誤解したものではないかとも考えられている。
 
その一方で、この年に近隣の[[沢村城]]で、那須内紛の戦が行われているため、この頃に、これに備えて那須との境界にある山田城が整備され、詰め城である山城部が築かれたのではないかとする説があり、これを支持した矢板市史の編纂者が、年表に載せたとする話もある。
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また、江戸後期に[[中原寛斎]]によって書かれたと推定される「山田環往来記」は次のように記す。
 
'''西山に雷神を祀る祠あり。此所は往昔山田村と土屋村の領主山田筑後守辰業殿の居城跡なり。故に四方掻掲(そうけい)の濠ありて恰も(あたかも)築山の如し。濠は百尋雷零の井の如し。仍(より)て猪鹿等も近より難く、飛鳥も亦翔翺(しょうこう)し難き要害の地なり。時到りて鉄城も山野に変ず。山田筑後守辰業の一族は、天正の乱に基地居城を失ふて離散せしこそ残念なり。'''
 
*上記の天正の乱とは「薄葉ヶ原合戦」のことである。
 
== 三重の堀切の謎 ==
山田城の縄張りを見ると、塩谷領でありながら、那須領ではなく塩谷領に向かって三重の堀切が設けられている。これは、縄張的に見れば、仮想敵が那須ではなく、塩谷である事を示しており、山田城の位置づけについて、本当に対那須防衛の城であったのか疑問が呈されている。山田城は、縄張的に見ると、薄葉合戦後は、那須方の城だったのではないかとする主張もある。この那須領説を裏付ける事実として、塩谷氏の重臣大沢氏の記録(大沢家記)には、「'''天正拾五年(1587(1587)八月十一日、塩谷之内泉館([[泉城]])那須より大勢責来(攻め来たり)'''」とあり、那須領から泉城を攻めるためには山田城を突破しなければならず、山田城が那須勢の拠点として使用されていた可能性が高い事を示している。
 
また、宇都宮氏の家臣である川上氏の系図を見ると、山田に隣接する土屋一帯が、薄葉合戦後に川上氏の領地になったとされており、この事から、宇都宮氏の一族である塩谷氏から独立した岡本氏を見張るために山田城が再整備され、岡本領の方角に三重の堀切が設けられたのではないかとする説もある。
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== 根小屋(根古屋)城の名称について ==
根小屋(根古屋・根古谷等と表記される場合もあり)というのは、この地方では城跡に多い地名で根小屋城と呼ばれる城は多い。根小屋の「小屋」とは「城」と同義語であり、特に国人や土豪クラスの小規模な城を「小屋」と称し、根城の意味で「根小屋」と呼ばれたものである。山田城も城山以外の部分は内根小屋などの字名で呼ばれている。ただ、このために塩谷孝綱家臣として記される根小屋城代を山田城の城代とする見解が存在するが、この根小屋城代は、[[川崎城 (下野国)|川崎城]]の南にあった[[堀江山城]]のことであり、山田城のことではない。城主も岡本大隅、岡本備前、岡本清五郎とあり、岡本大隅とは、天正7年([[1579年]])正月28日付の書状が残る岡本大隅守道家のことであり、この時代、山田城主は泰業の孫の辰業であり、記述と合わないこともそれを証明している<ref>『矢板市史』(矢板市史編集委員会編、1981年)、「塩谷朝業」</ref>
 
== 脚注 ==
<references />
 
== 参考資料 ==
* 矢板市史編集委員会 1981『矢板市史』矢板市
 
== 関連項目 ==
* [[塩谷朝業]]
*[[日本の城一覧]]
 
== 参考資料 ==
* 矢板市史
* 塩谷朝業
 
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