「グレコ・バクトリア王国」の版間の差分

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エウクラティデス1世([[紀元前171年]] - [[紀元前145年]]頃)は王位を奪ってからというもの、多くの戦争を遂行したため、グレコ・バクトリアの兵力と国力を衰退させていった。しかし、そんな状況下でもエウクラティデス1世はインド・グリーク朝の[[デメトリオス2世 (インド・グリーク王)|デメトリオス2世]]を倒し、西北インドをふたたび支配下に置くことに成功する。
 
[[紀元前145年]]頃、エウクラティデス1世がインド遠征から帰還する際、王国の共同統治者にしておいた息子の[[ヘリオクレス1世|ヘリオクレス]]<ref>ポンペイウス・トログスの『ピリッポス史』(地中海世界史の一部)では、「王国の共同統治者にしておいた息子によって殺された」としか記されておらず、ヘリオクレスかどうかはわからない。</ref>によって殺され、ヘリオクレスがグレコ・バクトリア王国の君主となった。しかし、ヘリオクレスの治世は長く続かず、[[紀元前140年]]~[[紀元前130年]]の間に北の遊牧騎馬民族である[[アシイ|アシオイ]],パシアノイ,[[トハラ人|トカロイ]],サカラウロイ<ref>ポンペイウス・トログスの『地中海世界史』では、「サラウカェ族とアシアニ族がバクトリアとソグディアナを占領した」としている。</ref>の4種族に侵攻され、王国は滅ぼされた<ref>護雅夫・岡田英弘編『民族の世界史4.[[中央ユーラシア]]の世界』の64頁、「第1部 イラン系民族」より</ref>。
 
== 習俗・文化 ==