「フィルモン・ポウノル」の版間の差分
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それから2年間、ポウノルはフェイバリットを指揮して、[[1761年]]半ばには、チャールズ・プロビー指揮下の[[カディス]]沖の戦隊に加わって航海した。この戦隊は74門艦[[サンダラー (戦列艦・初代)|サンダラー]] 、{{仮リンク|モデスト (3等艦)|label=モデスト|en|HMS Modeste (1759)}}、44門艦{{仮リンク|テティス (軍艦)|label=テティス|en|HMS Thetis (1747)}}で構成されていた。[[7月16日]]に64門艦アシーユとフリゲート艦ブフォンヌの2隻のフランス艦が、封鎖中の港をかろうじて離れたが、その翌日にイギリス艦隊に追跡され、[[海戦]]となった。激戦の末、両艦とも拿捕された<ref name="Winfield269"/><ref name="Burke">{{cite book |last=Burke |title=The Annual Register|page=151}}</ref>。ポウノルは[[1762年]][[5月]]まで、[[サン・ヴィセンテ岬]]の防御のために[[チャールズ・ソーンダース]]が派遣したフェイバリットで指揮を執った。フェイバリットはソーンダース艦隊の1隻だった<ref name="ODNB"/>。
5月15日、フェイバリットはハーバート・ソウヤー艦長の[[フリゲート]]艦{{仮リンク|アクティブ (6等艦)|label=アクティブ|en|HMS Active (1758)}}と共に、サンタマリア岬沖を航海していたところ、2隻はスペイン艦を発見して追跡した。いったん拿捕されたこの船はスペインの[[レジスターシップ]]のエルミオーネで、この年の[[1月6日]]に[[リマ]]を発ち、いくつもの袋に詰めた[[金|黄金]]と、[[金貨]]と、金銀の[[インゴット|延べ棒]]と、[[カカオ]]豆と、[[錫]]の塊を積んでいた。エルミオーネは[[ジブラルタル]]へと連れて行かれ、最終的に積荷、船体、[[艤装]]品共々戦利品となり、すべての価格は51万9705[[ポンド]]10[[シリング]]にもなった、これは今日の価格で7千130万ポンドに相当する。ポウノルとソウヤーはそれぞれ艦長の分け前として賞金6万4千782ポンド(今日の価格で890万ポンド)を手に入れた。この時代の賞金としては最も大きな部類に入る<ref name="ODNB"/><ref name="LM">{{cite book |last= |title=The London Magazine|page=396}}</ref>。水兵たちもそれぞれ480ポンドを受け取った、これは彼らの30年分の賃金に相当した。偶然にも、ソウヤーもポウノルも、[[リスボン]]の商人の2人の娘である姉妹にそれぞれ求婚していたが、資金が足りないため断られていた。今や大金持ちとなった2人は、彼女たちと結婚した。ポウノルはこの賞金でアシュプリントンのシャープハムに土地を買い、[[ランスロット・ブラウン|ケーパビリティ・ブラウン]]の設計した[[庭園]]つきの大きな邸宅を建てた。この頃ポウノルは、[[ジョシュア・レノルズ]]に肖像画を依頼したといわれる<ref name="ODNB"/><ref name="Bradt"/>。
==アメリカ独立戦争==
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