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== 生涯 ==
=== 出生
天正元年12月1日(1573年12月24日)に[[秋庭綱典]]の次男として[[但馬国]]出石に生まれる。父・綱典は但馬国主'''[[山名祐豊]]'''の重臣であった。
8歳のとき但馬の守護山名家は織田信長の侵攻に遭い配下の[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]に攻められて滅亡し、父は浪人した。沢庵は10歳で出石の[[唱念寺]]で出家し、春翁の[[法諱]]を得た。14歳で同じく出石の[[宗鏡寺]]に入り、[[希先西堂]]に師事。秀喜と改名した。[[天正]]19年([[1591年]])、希先
[[文禄]]3年([[1594年]])、薫甫が大徳寺住持となり上京したため、沢庵もこれに従い大徳寺に入った。大徳寺では三玄院の春屋宗園に師事し、宗彭と改名した。[[慶長]]4年([[1599年]])、[[石田三成]]が居城[[佐和山城]]の城内に亡母の供養のために瑞嶽寺という一寺を建立した際、[[三玄院]]の建立以来親交があった春屋
[[関ヶ原の戦い]]の結果、佐和山城が陥落すると、薫甫と沢庵は共に城を脱出し、春屋のところに落ち延びた。この後、春屋と共に、処刑された三成の遺体を引き取った後、三玄院に葬り、手厚く弔っている。慶長6年、薫甫が亡くなった後、[[和泉国]][[堺市|堺]]に出て、[[文西洞仁]]の門下に入った。その文西が慶長8年に亡くなった後は[[南宗寺]]陽春庵の[[一凍紹滴]]に師事し、32歳になった[[慶長]]9年([[1604年]])8月4日、遂に大悟し、沢庵の法号を得た。
=== 大徳寺出世入院と隠棲 ===
慶長12年([[1607年]])、沢庵は大徳寺首座となり、大徳寺塔中[[徳禅寺]]に住むとともに南宗寺にも住持した。慶長14年([[1609年]])、37歳で大徳寺の第154世住持に出世したが、名利を求めない沢庵は3日で大徳寺を去り、堺へ戻った。[[元和 (日本)|元和]]6年([[1620年]])、郷里出石に帰り、[[出石藩]]主・[[小出吉英]]が再興した宗鏡寺に庵を結び、これを投淵軒と名づけて、隠棲の生活に入った。
=== 紫衣事件 ===
''詳細は[[紫衣事件]]参照。''
江戸幕府が成立すると、[[寺院法度]]などにより[[寺社]]への締め付けが厳しくなる。特に、大徳寺のような有力な寺院については、[[禁中並公家諸法度]]によって朝廷との関係を弱めるための規制もかけられた。これらの法度には、従来、[[天皇]]の詔で決まっていた大徳寺の住持職を[[江戸幕府|幕府]]が決めるとされ、また天皇から賜る紫衣の着用を幕府が認めた者にのみ限ることなどが定められた。
[[寛永]]4年([[1627年]])、幕府は、[[後水尾天皇]]が幕府に諮ることなく行った紫衣着用の勅許について、法度違反とみなして勅許状を無効とし、[[京都所司代]]に紫衣の取り上げを命じた。これに反
この運動が幕命に反するものとして、沢庵たちは罪に問われることとなり、その問責のため、寛永6年([[1629年]])、江戸へ召喚されることとなった。江戸城内での弁論の結果、同年7月に幕府は沢庵たちを有罪とし、沢庵を[[出羽国]][[上山市|上山]]に、また玉室を[[陸奥国]]棚倉、単伝は陸奥国由利、東源は津軽へ各々[[流罪]]とした。時に沢庵57歳のことである。
=== 晩年 ===▼
沢庵が柳生宗矩に与えた書簡を集めた『[[不動智神妙録]]』は、「'''剣禅一味'''」を説き、禅で武道の極意を説いた最初の書物である<ref>今村嘉雄『大和柳生一族』。なお、『[[不動智神妙録]]』の原本は現存せず、沢庵から柳生宗矩に書き贈ったという事実を証する史料はないが、沢庵の作であり、しかも柳生宗矩のために書いたということは当時から認められていたようであり、今日では定説となっている(同書)。</ref>。沢庵はいったん江戸に出て、神田広徳寺に入った。しかし京に帰ることはすぐには許されず、同年冬より駒込の[[堀直寄]]の別宅に身を寄せ、寛永11年([[1634年]])夏までここに留まった。宗珀とともに大徳寺に戻ったのち、将軍・[[徳川家光]]が上洛し、天海や柳生宗矩・堀直寄の強い勧めがあり、沢庵は家光に謁見した。この頃より家光は深く沢庵に帰依するようになった。▼
=== 赦免から家光への近侍まで ===
寛永9年([[1632年]])、沢庵60歳の年に、大御所・[[徳川秀忠]]の死により大赦令が出され、[[天海]]、[[堀直寄]]、[[柳生宗矩]]などの尽力により、紫衣事件に連座した者たちは許された。<ref>寛永13年2月25日 小河九右衛門宛書簡「大徳寺難儀に及び申し候時は、柳生殿と堀丹州両人の外に、さまで笑止とも申す人はこれ無し候。我身を大事に皆々存じて、其の時分はのがれぬ人達も、よそに見ており申し候」」</ref>沢庵もいったん江戸に出て、神田広徳寺に入った。しかし京に帰ることはすぐには許されず、同年冬より駒込の[[堀直寄]]の別宅に身を寄せ、寛永11年([[1634年]])夏までここに留まった。そして玉室と共に大徳寺に戻った時、将軍・[[徳川家光]]の上洛に際し、天海、堀直寄、柳生宗矩の強い勧めにより、沢庵は家光に謁見した。この頃より家光は深く沢庵に帰依するようになったという。同年、郷里出石に戻ったが、翌寛永12年、幕命により再び江戸に下った。その後、寛永13年に玉室、江月らと共に家光に拝謁したところ、二人は帰されたが、沢庵のみ江戸に留まるよう求められ、家光に近侍することとなった。
=== 国師号辞退から寺法旧復まで ===
江戸においては、柳生宗矩の下屋敷(この一室を「検束庵」と名付けている)に逗留し、家光の召しに応じて登城して禅を説いた。度々上方へ戻ったが、寛永15年には[[後水尾上皇|後水尾天皇]]に「原人論」の講義などを行った際、上皇より国師号授与の内示があったが、沢庵はこれを断り、代わりに大徳寺一世・[[徹翁義亨]]へ追諡を願っている。また同時期に柳生宗矩の頼みを受け、大和国柳生庄に赴き、後に柳生家の菩提寺となる[[芳徳寺]]を開山している。翌寛永16年([[1639年]])、67歳の時、江戸に戻ると、家光によって創建された[[東海寺 (品川区)|萬松山東海寺]]に初代住職として入ることとなった。
▲=== 晩年 ===
[[画像:Sukyoji16s4592.jpg|thumb|250px|墓所 ([[宗鏡寺]])]]
その後、正保2年12月11日(1646年1月27日)、73歳の時、沢庵は江戸で没した。死に際し、弟子に辞世の偈を求められ、「夢」の一文字を書き、筆を投げて示寂したという。「墓碑は建ててはならぬ」の遺誡
▲晩年の沢庵が多くの諸侯の招きを拒絶しながら家光の要請を受け入れたのは、前述の経歴から見て、彼が終生にわたって三成を慕い、三成ゆかりの人間が周辺に多かった家光に好意を持ったためと考えられる。沢庵は最終的に紫衣事件において幕府から剥奪された大徳寺住持[[正隠宗智]]をはじめとする[[臨済宗#大徳寺派|大徳寺派]]・[[臨済宗#妙心寺派|妙心寺派]]寺院の住持らへ紫衣を完全に奪還し、無住状態の大徳寺派・妙心寺派寺院の法灯を揺らぎないものにしたのである。
== 人物 ==
*当時の代表的[[禅]]僧として知られる。また、受け答えも当意即妙で、禅の教えを身近なものに例えて教授するなど、その話が魅力的であったこともあり、多くの人々から慕われ、徳川家光を始め、多くの大名や貴族からの帰依を受けている。しかしながら、沢庵自身は名利を求めない枯淡の禅風を崩すことはなく、あくまで自らは一禅僧に過ぎないと述べている。国師号辞退の際は[[一糸文守]]が賞賛の詩を書いている。
*名利を求めぬ反面、宗門の為に権門に交わることも厭わなかった。大徳寺・妙心寺の寺法旧復のために家光に近侍し、また乞われれば政治的助言も与えている。この態度を以って、沢庵は大名好きだという批判を受けることもあったが、寛永18年に寺法旧復が成った際に、批判したことを恥じる者が多かったという。<ref>「両寺の衆侶、積年の愁眉一時にひらけ、喜ぶことかぎりなし。和尚富貴に親して栄幸あるを謗るもの有りしかど、ここに至って前言を恥じるもの少なからずとか」(万松祖録)</ref>
▲
*詩歌を好み、[[細川幽斎]]や[[烏丸光広]]と交わり、自らの歌の添削などを依頼している。
*自身の禅を自分一代で断絶させている。嗣法を家光や後水尾上皇から求められてもこれを拒否し、最後まで嗣法の弟子を定めず、遺戒においては、自身の禅を継いだと称する者は法賊であるとまで言っている。また、自らの事蹟を残さないようにも命じているが、後に門人・武野宗朝が『東海和尚紀年録』を記している。
== 逸話 ==
;史実での逸話
*隠棲時、豊臣家<ref>[[慶長]]16年([[1611年]])の[[豊臣秀頼]]からの招きを断っている(東海和尚紀年録)</ref>や様々な大名家([[細川忠興]]<ref>慶長16年、細川忠興から自らが立てた寺の住職になることを依頼されたが、これを拒否している(東海和尚紀年録)</ref>、[[浅野幸長]]<ref>慶長17年、浅野幸長が面会しに来た時は裏口から逃げて対面しなかったという(東海和尚紀年録)</ref>、[[黒田長政]]<ref>[[元和]]3年([[1617年]])に黒田長政から父[[黒田孝高|黒田如水]]の供養のために博多に移した崇福寺の開眼供養に招かれた時も拒否している(東海和尚紀年録)</ref>など)から招かれたが、これらの招きを全て拒否した。(東海和尚紀年録)<ref>これを以って、佐和山城での縁により、沢庵が[[石田三成]]に好意を持っており、三成を見捨てた豊臣家や、敵対した豊臣系東軍大名との交流を拒絶したからではないかとする説もある(白川亨「石田三成とその一族」、三池純正「敗者から見た関ヶ原合戦」)</ref>その他、[[高松宮好仁親王]]が弟子入りのために自ら投淵軒を訪れた際も決して会おうとしなかったという。(東海和尚紀年録)
*大悟後、かつての師である春屋と問答をした際、その受け答えが当意即妙だったため、「伶牙利舌(れいがりぜつ)の漢」と称賛された。またこれを聞いた師の一凍は「真の跨竈児(こそうじ)」と賞賛したという(沢庵大和尚行状)
*[[細川忠興]]に茶に招かれた際、かけられていた[[大燈国師]]の[[墨蹟]]を一目で贋作だと喝破した。これにより、贋作偽造を行った大徳寺の[[松岳紹長]]が破門されている。(東海和尚紀年録)
*元和6年頃、[[鬱病]]になったことがあるという(「東海百首」末尾)
*紫衣事件の時、幕府に提出した抗弁書は自分一人が書いたものであり、処罰は自分一人にして欲しいと述べた。この態度に感銘を受けた天海は、沢庵を賞賛し、刑の軽減を主張している(細川家記)
*柳生三厳(十兵衛)が最初に書いた伝書を父・宗矩に「焼き捨てよ」と命じられた際、十兵衛にその真意を教え諭し、伝書に一筆加えて宗矩へ取り成したことで、十兵衛は[[柳生新陰流]]の印可を得ることができたという(「昔、飛衛といふ者あり」(柳生十兵衛伝書))
*寛永19年、日蓮宗と浄土宗の宗論に立ち合い、家光に「何故両宗は仲が悪いのか」と尋ねられた際、「両宗とも、末法の世に教えを説くために仏法を分かりやすく引き下げてしまったために、引き下げた教えに食い違いが生じ、それ故に宗論が自宗の正しさを示すものになるためです。他宗の場合は同じところに教えがあるので、そうはならないのです」と答え、家光も納得したという(万松祖録)
*家光から屋敷や寺を与えると言われても頑なに断り続け、最終的に柳生宗矩に説得され、ようやく東海寺住持となることを引き受けたという(沢庵和尚書簡集)
*家光が東海寺を訪れた際、「東海寺と言えど海近し」と問われた時、即座に「大君と言えど将軍と称するがごとし」と返したという([[徳川実紀]])
;真偽が明らかではない逸話
▲正保2年12月11日(1646年1月27日)、沢庵は江戸で没した。「墓碑は建ててはならぬ」の遺誡を残しているが、円覚山宗鏡寺 ([[兵庫県]][[豊岡市]]出石町)と萬松山東海寺([[東京都]][[品川区]])に墓がある。
*見張っていないと沢庵和尚はすぐに外に出てしまうとして、東海寺では「沢庵番」と呼ばれる見張りを立てたという。
*家光の命により虎をなでるように言われた際、虎の檻にするりと入って、たちまちのうちに虎を手懐けてしまったという(万松祖録)
== 沢庵漬け ==
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