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[[関東大震災]]・[[東京大空襲]]などの戦禍・震災を除くと日本史上最大の火災であり、[[ローマ大火]]・[[ロンドン大火]]・'''明暦の大火'''を世界三大大火とする場合もある。
 
明暦の大火を契機に江戸の都市改造が行われ、[[徳川御三家|御三家]]の屋敷が江戸城外に転出するとともに、それに伴って武家屋敷・大名屋敷、寺社が移転した。
 
この大火を契機に江戸の都市改造が行われ、[[徳川御三家|御三家]]の屋敷が江戸城外に転出するとともに、それに伴って武家屋敷・大名屋敷、寺社が移転した。また、市区改正が行われるとともに、防衛のため[[千住大橋]]だけであった[[隅田川]]の架橋([[両国橋]]や[[永代橋]]など)が行われ、隅田川東岸に[[深川_(江東区)|深川]]など市街地が拡大されるとともに、[[吉祥寺]]や[[下連雀]]など郊外への移住も進んだ。
 
さらに防災への取り組みも行われ、[[火除地]]<ref name="#1">森下・山﨑(2013)、3–5頁。</ref>や延焼を遮断する[[防火帯|防火線]]として[[広小路]]が設置された<ref name="#1"/>。現在でも[[上野広小路]]などの地名が残っている。幕府は防火のための建築規制を施行し<ref name="#2">森下・山﨑(2013)、5・6頁。</ref>、耐火建築として[[土蔵造]]<ref>近世史料研究会編:『江戸町触集成』第4巻、塙書房、1994。</ref>や[[瓦葺屋根]]<ref>東京市役所編纂『東京市史稿市街篇』第7巻。</ref><ref>近世史料研究会編:『江戸町触集成』第1巻・第4巻、塙書房、1994.</ref>を奨励した<ref name="#2"/>。
 
しかしもっとも、その後も板葺き板壁の町屋は多く残り、「火事と[[喧嘩]]は江戸の華」と言われる通り、江戸はその後もしばしば大火に見舞われた。事実、翌年の明暦4年1月10日(1658年2月12日)には再び本郷から神田・日本橋一帯を焼く火災に見舞われている<ref>[https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/100/1041.36/1/G-4/00236?m=limit&n=20]</ref>
 
== 状況 ==
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火災後、身元不明の遺体は幕府が本所牛島新田に船で運び埋葬し、供養のため現在の[[回向院]]が建立された。また幕府は米倉からの備蓄米放出、食糧の配給、材木や米の価格統制、武士・町人を問わない復興資金援助を行った。[[松平信綱]]は合議制の先例を廃して老中首座の権限を強行し、1人で諸大名の[[参勤交代]]停止および早期帰国(人口統制)などの施策を行い、災害復旧に力を注いだ。松平信綱は米相場の高騰を見越して、幕府の金を旗本らに時価の倍の救済金として渡した{{要校閲|date=2019年6月}}。それを受けて、地方の商人が江戸で大きな利益を得られるとして米を江戸に送り、幕府が直接に商人から必要数の米を買いつけて府内に送ったため、府内に米が充満して米価も下がった。
 
しかし、明暦4年1月10日(1658年2月12日)には再び本郷から神田・日本橋一帯を焼く火災に見舞われている(『46』)<ref>[https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/100/1041.36/1/G-4/00236?m=limit&n=20]</ref>。
この大火を契機に江戸の都市改造が行われ、[[徳川御三家|御三家]]の屋敷が江戸城外に転出するとともに、それに伴って武家屋敷・大名屋敷、寺社が移転した。また、市区改正が行われるとともに、防衛のため[[千住大橋]]だけであった[[隅田川]]の架橋([[両国橋]]や[[永代橋]]など)が行われ、隅田川東岸に[[深川_(江東区)|深川]]など市街地が拡大されるとともに、[[吉祥寺]]や[[下連雀]]など郊外への移住も進んだ。
 
さらに防災への取り組みも行われ、[[火除地]]<ref name="#1">森下・山﨑(2013)、3–5頁。</ref>や延焼を遮断する[[防火帯|防火線]]として[[広小路]]が設置された<ref name="#1"/>。現在でも[[上野広小路]]などの地名が残っている。幕府は防火のための建築規制を施行し<ref name="#2">森下・山﨑(2013)、5・6頁。</ref>、耐火建築として[[土蔵造]]<ref>近世史料研究会編:『江戸町触集成』第4巻、塙書房、1994。</ref>や[[瓦葺屋根]]<ref>東京市役所編纂『東京市史稿市街篇』第7巻。</ref><ref>近世史料研究会編:『江戸町触集成』第1巻・第4巻、塙書房、1994.</ref>を奨励した<ref name="#2"/>。
 
しかし、その後も板葺き板壁の町屋は多く残り、「火事と[[喧嘩]]は江戸の華」と言われる通り、江戸はその後もしばしば大火に見舞われた。事実、翌年の明暦4年1月10日(1658年2月12日)には再び本郷から神田・日本橋一帯を焼く火災に見舞われている<ref>[https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/100/1041.36/1/G-4/00236?m=limit&n=20]</ref>。
 
== 諸説ある原因 ==
[[ファイル:Stupa_of_The_Great_Fire_of_Meireki_20100214.jpg|thumb|250px|明暦の大火供養塔([[東京都]][[豊島区]][[巣鴨]]・[[本妙寺 (豊島区)|本妙寺]])]]
出火原因は放火説と失火説とがあるが、現在も特定されていない。
 
=== 本妙寺失火説 ===
[[本妙寺 (豊島区)|本妙寺]]の失火が原因とする説は、以下のような伝承に基づく。なお、この伝承は大が'''振袖後まもなく事'''時期別名の由来唱えられており、[[矢田挿雲]]が細かく取材して著し、[[小泉八雲]]登場人物名を替えた小説を著しなっている。
 
お江戸・[[麻布]]の裕福な[[質屋]]・遠州屋の娘・梅乃([[数え年|数え]]17歳)は、本郷の本妙寺に母と墓参りに行ったその帰り、上野の山ですれ違った寺の[[小姓]]らしき美少年に一目惚れ。ぼうっと彼の後ろ姿を見送り、母に声をかけられて正気にもどり、赤面して下を向く。梅乃はこの日から寝ても覚めても彼のことが忘れられず、恋の病か、食欲もなくし寝込んでしまう。名も身元も知れぬ方ならばせめてもと、案じる両親に彼が着ていたのと同じ、[[荒磯]]と[[キク|菊柄]]の[[振袖]]を作ってもらい、その振袖をかき抱いては彼の面影を思い焦がれる日々だった。しかし痛ましくも病は悪化、梅乃は若い盛りの命を散らす。両親は葬礼の日、せめてもの[[供養]]にと娘の棺に生前愛した形見の振袖をかけてやった。
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さすがに寺男たちも因縁を感じ、住職は問題の振袖を寺で焼いて供養することにした。住職が読経しながら[[護摩]]の火の中に振袖を投げこむと、にわかに北方から[[突風|一陣の狂風]]が吹きおこり、裾に火のついた振袖は人が立ち上がったような姿で空に舞い上がり、寺の軒先に舞い落ちて火を移した。たちまち大屋根を覆った紅蓮の炎は突風に煽られ、一陣は[[湯島]]六丁目方面、一団は[[駿河台]]へと燃えひろがり、ついには江戸の町を焼き尽くす大火となった。
 
このことから、この伝承は前述の'''振袖火事'''の別名の由来に、[[矢田挿雲]]が細かく取材して著し、[[小泉八雲]]なっ登場人物名を替えた小説を著している。しかし伝説の誕生は大火後まもなくの時期であり、同時代の[[浅井了意]]は大火を取材してこれを「作り話」と結論づけている。
 
=== 幕府放火説 ===
江戸の都市改造を実行するため、幕府が放火したとする説。
 
当時の江戸は急速な発展による人口の増加にともない、住居の過密化をはじめ、衛生環境の悪化による疫病の流行、連日のように殺人事件が発生するほどに治安が悪化するなど都市機能が限界に達しており、もはや軍事優先の都市計画ではどうにもならないところまで来ていた。しかし、都市改造には住民の説得や立ち退きに対する補償などが大きな障壁となっていた。そこで幕府は大火を起こして江戸市街を焼け野原にしてしまえば都市改造が一気にできるようになると考えたのだという。江戸の冬はたいてい北西の風が吹くため放火計画は立てやすかったと思われる。実際に大火後の江戸では都市改造が行われている。しかし一方で、先述のように、幕府側も火災で被害を受けており、江戸城にまで大きな被害が及んだためぶなどしており、幕府放火説の真偽疑問が存在すともかく、幕府側も火災で被害を受ける結果になっている。
 
=== 本妙寺火元引受説 ===
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== 影響 ==
[[File:Meireki fire woodblock.jpg|thumb|250px|『むさしあぶみ』より。車長持に荷物を満載して避難する人々]]
* [[江戸城]]天守閣は明暦の大火で消失したため再建する意見が多かったが、幕閣の重鎮であった[[保科正之]]が資金を市街の復興に充てるとする意見を主張し、これが採用されたため再建されることは無かった。これは天守閣再建のための余剰な財源が無かったためで、江戸幕府の象徴たる江戸城天守を再建する資金自体が、[[徳川家綱|4代将軍家綱]]の時点で既に枯渇していたことを意味していた。
* [[大奥]]ではこれ以前は髪を結い上げることがなく安土桃山時代と同様の[[垂髪]]だったが、これ以降は一般武家や町人と同様に[[日本髪]]を結うようになった。
* 大奥女中らが表御殿の様子がわからず出口を見失って大事に至らないように、松平信綱は畳一畳分を道敷として裏返しに敷かせて退路の目印(避難誘導路)とし、そのあとに大奥御殿に入って「将軍家(家綱)は西の丸に渡御されたゆえ、諸道具は捨て置いて裏返した畳の通りに退出されよ」と下知して大奥女中を無事に避難させた。