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長元9年([[1036年]])後一条天皇の死去により、同母弟の[[後朱雀天皇]]が即位しても、引き続き天皇の外叔父として関白を務めた頼通に、[[朝廷 (日本)|朝廷]]の権勢は集中した{{refnest|group="注釈"|後朱雀天皇の[[蔵人頭]]で、政治的には頼通と対立する立場にあった[[藤原資房]]も「顕官重職は、たゞ執柄(=頼通)の心に随ふべし」<ref>『[[春記]]』[[長暦]]2年12月7日条</ref>、「いま関白の第は、これ朝廷に異ならず」<ref>『春記』長暦3年10月12日条</ref>、と評した。}}。しかしながら「一家三后」を実現した道長と異なり、子女に恵まれぬ頼通は、やむなく正妻隆姫の縁で[[敦康親王]]の娘の[[藤原嫄子|嫄子]]を養女として後朱雀天皇に入内させて皇后(中宮)となした。
後朱雀天皇の妃となった妹の嬉子は、東宮に立てられた親仁親王を生んですぐに死去していたこともあり、別に[[後三条天皇|尊仁親王]]を生んだ[[禎子内親王]](三条天皇の第三皇女。道長の外孫で頼通の姪だが、疎遠であった)が皇后に立てられていた。頼通が皇子誕生を期待した嫄子は、皇女を生んだのみで死去してしまった。弟の教通も対抗して娘・[[藤原生子|生子]]を入内させるが皇子を生むことはなかった。
[[寛徳]]2年([[1045年]])、病に倒れた後朱雀天皇から、親仁の次代の東宮に望まれた尊仁は、道長の曾孫ではあるものの[[藤原氏]]を外戚としない親王であった。そこで親仁に男子が誕生した際に皇位継承を巡って紛糾するとの建前で、頼通は東宮を立てるのは時期尚早であると反対した。これに対し、頼通とは反りが合わない異母弟の[[大納言|権大納言]][[藤原能信|能信]]([[源明子]]の子)は「いま尊仁を立太子させなくていつするのか」と天皇に迫って決意を促し、天皇は尊仁を皇太子に冊立するとの遺命を残して死去した(『[[愚管抄]]』『[[今鏡]]』)。
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