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=== 史実での逸話 ===
* 隠棲時、豊臣家{{refnest|group=注釈|[[慶長]]16年([[1611年]])の[[豊臣秀頼]]からの招きを断っている<ref name="tokai">『東海和尚紀年録』</ref>。}}や様々な大名家([[細川忠興]]{{refnest|group=注釈|慶長16年、細川忠興から自らが立てた寺の住職になることを依頼されたが、これを拒否している<ref name="tokai"/>。}}、[[浅野幸長]]{{refnest|group=注釈|慶長17年、浅野幸長が面会しに来た時は裏口から逃げて対面しなかったという<ref name="tokai"/>。}}、[[黒田長政]]{{refnest|group=注釈|[[元和 (日本)|元和]]3年([[1617年]])に黒田長政から父[[黒田孝高|黒田如水]]の供養のために博多に移した崇福寺の開眼供養に招かれた時も拒否している<ref name="tokai"/>。}}など)から招かれたが、これらの招きを全て拒否した<ref name="tokai"/>{{refnest|group=注釈|これを以って、佐和山城での縁により、沢庵が[[石田三成]]に好意を持っており、三成を見捨てた豊臣家や、敵対した豊臣系東軍大名との交流を拒絶したからではないかとする説もある<ref>白川亨「石田三成とその一族」、三池純正「敗者から見た関ヶ原合戦」</ref>。}}。その他、[[高松宮好仁親王]]が弟子入りのために自ら投淵軒を訪れた際も決して会おうとしなかったという<ref name="tokai"/>。
* 大悟後、かつての師である春屋と問答をした際、その受け答えが当意即妙だったため、「伶牙利舌(れいがりぜつ)の漢」と称賛された。またこれを聞いた師の一凍は「真の跨竈児(こそうじ)」と賞賛したという(沢庵大和尚行状)。
* [[細川忠興]]に茶に招かれた際、かけられていた大燈国師([[宗峰妙超]])の[[禅林墨跡|墨蹟]]を一目で贋作だと見破った。これにより、贋作偽造を行った大徳寺の[[松岳紹長]]が破門されている<ref name="tokai"/>。
* 元和6年(1620年)頃、[[鬱病]]になったことがあるという(東海百首末尾)。
* 紫衣事件の時、幕府に提出した抗弁書は自分一人が書いたものであり、処罰は自分一人にして欲しいと述べた。この態度に感銘を受けた天海は、沢庵を賞賛し、刑の軽減を主張している(細川家記)。
* 柳生三厳(十兵衛)が最初に書いた伝書を父・宗矩に「焼き捨てよ」と命じられた際、十兵衛にその真意を教え諭し、伝書に一筆加えて宗矩へ取り成したことで、十兵衛は[[柳生新陰流]]の印可を得ることができたという(「昔、飛衛といふ者あり」(柳生十兵衛伝書))
* 寛永19年(1642年)、日蓮宗と浄土宗の宗論に立ち合い、家光に「何故両宗は仲が悪いのか」と尋ねられた際、「両宗とも末法の世に教えを説くために仏法を分かりやすく引き下げてしまったため、引き下げた教えに食い違いが生じそれ故に宗論が自宗の正しさを示すものになるためです。他宗の場合は同じところに教えがあるので、そうはならないのです」と答え、家光も納得したという<ref name="bansho"/>。
* 家光から屋敷や寺を与えると言われても頑なに断り続け、最終的に柳生宗矩に説得され、ようやく東海寺住持となることを引き受けたという(沢庵和尚書簡集)。
* 家光が東海寺を訪れた際、「海近うして東海寺ト言ヘトとはいかに」(が「いのに「とお」かいじとはどういうことか)と問われた時、即座に「なを[[日本国大君ト言ヘト将軍ト|大君]]にしてしやうぐんとスルカコトシし奉るが如し(あなたも「大」君なのに「しょう」ぐんと称しておられるのと同じ)と返したという([[徳川実紀]]』<ref>{{国立国会図書館のデジタル化資料|991117/571|国史大系. 第10巻}}</ref>
 
=== 真偽が明らかではない逸話 ===